2017年6月 9日 (金)

中国での精神科入院記(5)

ご無沙汰しました、精神科入院記in China、久しぶりの更新です。
AZUは昼夜の寒暖差で風邪をひきまして、体力がなく犬の横に寝転んでおります。


今日書こうと思ったのは、上海にいた頃の病状と現在を比較してみたくなったのでそのネタ。
私は上海にいた頃はまだ発達障害もパーソナリティー障害も分かっておらず、単に双極性障害として治療を受けていました。旦那は現地の大学の本科に通っていて、彼の学費を含む生活費の全部を私の収入でまかなっている感じでした。旦那のSHUは小6からの不登校で、あまり学校での楽しい思い出がないまま大人になりました。もともと頭が良く向学心のあるSHUのこと、まだ「オジさん」という年齢でもないんだし、海外でなら成人でも大学に入りやすいから彼の失われた時間と体験を取り返せるのではないか?と思いついたのがそもそも私にとって2度目の上海移住のきっかけでした。


SHUに四年制大学を出てもらい、その間AZUは稼ぐ側に回る。四年間、まずは彼が学業を修めるのを費用面から支え、SHUには大学生活を存分に楽しんでもらう。彼の卒業後は彼に一家の稼ぎ頭をバトンタッチし、可能ならAZUも大学で学ぶ。そんな夢を描くようになり、SHUの上海留学は私達二人の一大プロジェクトとなりました。私もSHUの在学中きちんと就職し続けることを決意していました。


結末は……というと、二人のこの夢は精神障害という大きな壁に阻まれてしまい成功に至らなかったわけです。AZUは二度も上海の精神科入院棟に入ることになって当然仕事を続けられなくなり、SHUも入院までは行かずとも大きな事件をいくつか起こし、結局SHUが三年生の途中で私たちはやむなく帰国することに。ちょうどその頃SHUの父親が末期ガンと診断され三ヶ月足らずで亡くなったのも重なり、SHUの復学はかないませんでした。


入院していた時、SHUがほとんど持ち金がない中で私の好きな石焼き芋などを1つだけ持って地下鉄の駅から走ってお見舞いに通ってくれたことを思い出すと今でも胸がしめつけられます。彼の授業が終わるのは午後3時半、病院の面会時間は4時半までなので地下鉄に乗って病院まで走らないと間に合わない。病気と不自由な環境ゆえにわがままになっていたAZUはそんなSHUがいつも遅く来るのが不満でたまらず、まともにおいしいお土産を持ってきてくれるわけでもない彼に文句を言ったりしていました。


その頃の私は自分のなけなしの尊厳を必死で守ろうと旦那をサンドバックのように使っていたのです。入院記を書くと面白おかしいエピソードがたくさん出てくるし、「考えさせられる」「中国らしくて笑った」とかポジティブな感想をいただいたりします。でも実際は私が呑気に入院棟で休んでいる間にSHUにはもっと壮絶な闘いを強いていたのだということが今は痛いほどわかります。だから今までのように中国の病棟のユニークさや自身の病気の症状にばかり焦点を当てた入院記が書けなくなってきたのです。


AZUとSHUは結婚して8年半になりますが、本当に幸せだったのは一番最近の「半年」だけだったと思います。毒のある親の干渉、互いの精神障害とそれに伴う経済難、弟妹との決別と義母との同居、もう苦痛でしかない結婚生活が8年も続いて今やっと、本当にやっとのことで昔を振り返って「ごめんね、つらい思いをさせたね、本当に悪かった」という言葉が出せるようになったのです。


上海は私の心のホームタウンではあるけれど、その土地には私の涙がたくさんたくさん染み付いています。よく上海を指して「魔都」と言ったりするけど本当に上海には魔物がいるような気がする。上海の延安路と西藏路の交わるところには高架があるのですが、その基礎工事の際にどうしても杭が刺さらなかった場所があるという。後でその方面に詳しい人に調べてもらったら上海の地下に眠るドラゴンの眼にあたる部分だったから杭が刺せなかったのだとか……。魔都上海はそういうネタに事欠きません。私が昔働いていた会社も引っ越してから経営と運営が大きく傾き、社長の気が触れてしまったことがあった。上海の古い地図を開いて調べたら新事務所の位置はもともと墓地だったとか。本当に見えないブラックな力が働いているような、私にとってはそんな背が一瞬ヒヤッとするような魔法都市が上海なんです。


上海から用事があってたまに一時帰国すると「夢から醒めたような」現実感がふっと湧いてきます。中国にいる時間は異次元の中で深い眠りについたまま熱に浮かされていたような、それが日本に降り立った途端シューッと音がして目が覚め、張り詰めていたものから空気が出ていくような、そんな体験をしたことが何度もあります。不思議ですね。やっぱり、上海は私にとって魔都です。


もう上海に住むことはないだろうな、という不思議な予感があります。
とうとう魔法から解かれたような、安心感もあります。


SHUを殴ったり友人宅で気を失って気づいたら自宅のベッドで寝かされていたり、マンションから飛び降りようとして大怪我をして、SHUが自分の白いトレーナーで必死に止血してくれたこともありました。そこでの入院体験を思い出すことがだんだんつらくなってきたのも事実です。今はそれより、今現在の生活と将来の幸せを見据えて着実に地に足をつけていなければ。


というわけで、入院記は今後も書いたり書かなかったりするかもしれないけれど一旦完結です。AZUは筋金入りの気まぐれさんなので書きたくなったらまた発作的に書くし、書く気が起こらなければもう続きはないかもしれないし。そんなところでご勘弁下さいまし。



暑くなったね、雲が夏の形してるね。


AZU

2017年5月19日 (金)

ほったらかしにし過ぎてた

ブログをですね、ほったらかしにし過ぎてました。


最近はやはり短文で投稿できるTwitterとかWeChatばかり使っているので、いざ長文書こうと思うと時間と場所を選ぶんですね、これが。今日は休みの日、外も晴天で気温は26度。犬の散歩を終えた後に犬もろとも一緒にシャワーを浴びまして、犬も私もすっきり!な上に、お昼に作った袋ラーメンが思いのほかいい味で。キャベツ多めのワカメ少なめが一番おいしいということがわかってさらにすっきり!ゆるく冷房をかけてひんやりしたお部屋でTwitter書いていたら、(あぁそうだ。ブログがご無沙汰してる)ということを思い出して、それで今書き始めているわけです。


前置きが長くなりました。


最近のマイニュースといえば、職場のことばかりですね。

時の人である眞子さまと実はすぐ近所で働いていた、とか。(報道があるまで知らなかった)
企業対抗綱引き大会で東京消防庁にまさかの不戦勝、とか。(火事で出動してしまったから)
ミスインターナショナル日本代表の方とツーショットを撮ったら自分がジャガイモに見えた、とか。
……毎日面白いことが頻発する職場です。


最近のマイヘルスといえば(そんな言葉があるのか?)、キーワードは「境界性パーソナリティー障害」でしょうか。

精神障害のデパートであるAZUなんですが、今注目しているのはこの診断名なんです。
なんでも、母親との歪んだ関係に端を発し、母親の価値観の中で理想の子供を演じていたんですね。
私は多重人格で入院していた過去がありますが、旦那が言うには私の別人格の1つは母親本人だとか。
……母よ、たくさんの病名をありがとう。


最近のマイブームといえば(これはしっくりくる)、お笑いですね。

もともとお笑いが大好き過ぎて、かの吉本◯業に面接に行ったこともあるんですよ。
芸人志望で行くわけではないため、吉本に仕事の面接に行く時は「ネタを披露してはいけない」そうです。
私は(ネタをしたらあかん)とは肝に命じていたけど、「好きな芸人」を問われて他事務所の人ばかり挙げてしまった。
……それで落ちたわけではないと思うが。


さて、そろそろ中国での入院記に戻りましょうかね……。
だんだん書きたいネタ湧いてきましたよ。



AZU

2017年3月29日 (水)

三月去り始める

こんにちは!ブログをご無沙汰している時は、twitterに夢中になっている時ですのでご安心くださいね。


AZUは今、適度に幸せに過ごしています。
眠れるし、眠ることに後ろめたさも感じないし、起きれるし、起きることに絶望感も感じないし。ごはんもおいしいし、ラーメンもおいしい。仕事も順調に行けているし、薬のおかげで花粉症にも悩まされていません。犬も猫も元気だし、便秘してないし、AZUもSHUも元気です。電車も遅延してないし、車も変な音しないし、換気扇もちゃんと動いています。春はちゃんと来たし、雨もやんだし、東京の桜ももうすぐですし。


リア充、というのは比較対象がいてこその言葉ですが、わたしは比較対象なしでリアルが幸せです。わたしにとって、わたしなりに、わたしとしては十分に、幸せなんです。


だからね、安心してね。


そして今日あなたにも、幸せな瞬間が二回以上あるように祈っています。二回以上幸せを感じたら、あのAZUもなかなかやるな、と思ってくださいね。



では。



AZU

2017年2月20日 (月)

20年前のアルバム

今日は写真展です。
20年前の1997年、AZUが中国ハルピン市内で撮ってきた写真を載せますね。

まずは猿使いのおっちゃんと群がるおっちゃん。





自家用車がロバ車という一家をよく見かけました。





メロン味の甘いマクワウリを売るリヤカー。



子供たちが離れないあの窓は駄菓子屋さん。



中国の糊は水のりだから古い掲示物ははがせない。



鼻ほじりながら下水が壊れた坂道をゆくおっちゃん。



新郎が残念なルックス格差婚?




AZUにとって初めての外国がハルピンでした。
今となってはレトロな思い出たちですね。



AZU


2017年2月10日 (金)

カラオケにどハマり中

突然ですが、
AZUはカラオケが好きです。


家から徒歩3分の所に激安カラオケ店があるという好立地。
なので、犬に吠えられながらもちょこちょこ通っています。


でもわたしの歌い方は「一人で行くしかない選曲」なんですよ。例えばこの間は最初の2時間をモー娘。などのハロプロアイドルソングで引っ張った後、4時間中国語のC-POP歌いまくり。4時間ぶっ続けで一人で休みなく歌ったのに中国語楽曲のレパートリーが歌い終わらない…ってもはや日本人とは言えないんじゃないでしょうか。で、中国語に飽きるとまたハロプロに戻り、ヲタしか知らないようなB面の歌メドレーにいくわけです。ほら、一緒に行きたくないでしょう?


中国語で何を歌っているかと言いますと、ズバリ1997年前後の流行歌と2005年前後のアイドルソングでして、年代も相当偏っているわけです。ま、カラオケが全年代均等に歌える人なんかいるわけない…と思いますけど、AZUはことC-POPにはだいぶ偏りがあります。90年代で言えば陳明、那英、王菲が大好きです。陳明のカセットテープで中国語の発音を覚えましたからね、発音のモノマネは得意です。彼女の中国語の発音は、当時まだ歌詞の意味がよくわからなかったわたしが聞いてもうっとりと聞き惚れるような美しい音色でした。特にわたしが大好きだった「夜玫瑰」という曲のguiとかsuiとかもう絶品、中国語がわからん人には何言ってるか意味不明でしょうけど、とにかく単語レベル、文レベルではなく「音節レベル」で酔いしれていたマニアック女子でした。王菲(フェイ・ウォン)は「夢中人」という有名な曲が好きで、これはもう北京語で歌っちゃダメです、ちゃんと広東語でいかないと。ライブ映像のようにグネグネ飛び跳ねながら歌わなあかんのです。


2005年はわたしが上海にいてテレビっ子だった年です。その頃流行った中国語ポップス、ほとんど耳に覚えがありますね。台湾のS.H.Eや蔡依林(ジョリン・ツァイ)がヒット曲を量産していた頃です。その年の歌手発掘番組「超級女声」はツワモノ揃いで、わたしは3位だった張靚穎と4位だった何潔をテレビの前でキャーキャー言いながら応援していました。ちょうど用事で香港に行っていた週、いつも上海で観ているその番組が観られないことが残念過ぎて、香港の街を歩きながらも(今夜は誰が勝ち抜いたんだろう)とまるで上の空でしたから。2005年といえば「超級女声」を観るためだけに中国にいたようなもんです。ペンライトならぬ光らないただのペンを振り回して毎週ハッスルしていました。その頃他に流行っていた歌手で今でもAZUが好んで歌うのは、孫燕姿,張韶涵,梁靜茹,王心凌などですが、かすかな時代錯誤を許してもらえば,陳慧琳,梁詠琪,張惠妹,林憶蓮なんかもいつも歌います。


既にかなりブログの読者を失いかけてますね。
チャイナポップス愛が伝わればもうOKです。


「そうか~、AZUちゃんは洋楽聞かないんだねぇ」という声が聞こえてきそうなのでお断りしておきますと、わたしは洋楽もかなり偏った趣味で聞いております。まぁ60年代から70年代ですよね。アメリカのThe Beach Boysはデビューして50年以上経つ2013年に初めて中国上陸したんですが、AZUは上海のメルセデス・ベンツアリーナの前から6列目で観てましたよ。だってかのザ・ビーチ・ボーイズとはいえ中国人は見に行かないだろうから日本よりいい席で観れるぞ、と思ったんです。思ったとおり、会場は欧米人で埋め尽くされていました。日本人女子で一人で見に来て「バーバラ・アン」を歌って腰をフリフリはしゃいでいたのはわたしくらいでしょうね。アンコールの「ココモ」ではもう感涙通り越して泣きに入ってましたしね。…洋楽もチャイナポップスも歌うのはもっぱら女性歌手の楽曲ですけど、聞くなら男性歌手。ただ…わたしの好きな男性歌手にはゲイが多いことが微妙にいとをかし。




AZUのヲタクっぷりを全開させてしまいました。
意味わからなかった方、どうもすみませんでした。


今日のブログが面白くなかった方は、まずザ・ビーチ・ボーイズを聴いてください……
それとメジャーデビュー20周年を迎えたモーニング娘。'17の応援をよろしくです……



AZU

2017年2月 2日 (木)

2月、逃げ始める

2月ですね。


AZUの今月の目標は、
「東京の人が話している時にツッコミをいれない」
にしました。東京の人となかなか仲良くなれないのはわたしがしつこく絡んでツッコんでくるからだと思ったのです。東京の人はイチャモンつけずに話を最後まで聞いてほしいのかもしれない。話し相手がかなり良いボケをかましてくれてるのに明らかにツッコミ待ちではなく話を続けていくから、話を聞き終わった時にはツッコミどころまで忘れちゃうんだけどね、そのくらいがちょうどいいみたい。わたしはボケたあといかにもツッコミ待機中〜という顔で相手のツッコミを待ってるんだけど、いやぁ東京の人はツッコんでこないね。最近はいつもボールを蹴ろうとして空を蹴ってしまったような、そんなスカばかり。たまには関西人に心ゆくまでイジってもらいたいです。


最近のニュースといえば。
AZUは親の弁護人を辞めました。
わたしを苦しめ支配し容赦なく殴っては混乱させてきた親ですが、わたしは親をかばい続け、親に「片親家庭だったけど自分は娘を出来のいい子に育てることに成功した」という自信と自尊心とやり甲斐を感じてほしくて、親を弁護するためには他人を攻撃することもいとわないほどでした。


でも、我が親が子育ての準備もできないまま子供を産んでしまい、子供が必要としていたものを満足に備えようとしてこなかったことに対しある程度の報いを身に受けるべきではないか?少なくとも親の間違った子育ての結果を人為的に捻じ曲げて成功例に仕立て上げることは、娘のわたしがやるべきことではない。そう思えるようになってきて、親の弁護はやめたんです。


親のために体を張ることをやめて以来、一番変わったのは夫を大切にできるようになったことです。あ、わたし結婚していて旦那さんがいたんだ、ということを婚姻届以来初めて思い出したような気分です。旦那のことをルームシェアしている男性のような、または壁の模様か間接照明器具のようにしか思っていなかったけれど、今はちゃんと彼がわたしの横に立ち、わたしを気遣いながら歩みを合わせてくれる人間のパートナーなのだと認識できるようになったんです。


親の傀儡で着せ替え人形のようだったわたしは、他人と対等で信頼し合う関係を築くことがとても苦手でした。他人というのはすべてわたしの想像の産物であると考えていたため、なぜ自分が考えたはずのストーリーやキャラクターが自分の望み通りに動き、展開していかないのか不思議に思うことさえありました。今思えば自分の歪んだ世界感は親からの洗脳の結果でもあるし、生まれつき負っている障害特性の結果でもあると思います。


子は親のお人形ではない。
親は子の飼い主ではない。


親だって親としてのキャリアはわたしの年齢分の年数しかなく、ずっと初心者だった。だから事情は汲むよ。でもだからといって正当化できる悪事はない。


親の弁護人は下りて、
親の裁判人も下りて、
まずは
旦那の親友になること。

それが今後の生き方になるのかな、と思います。



AZU

2017年1月28日 (土)

通勤中〜〜

ただいま朝6:35、通勤電車の中です。
ふとブログを書きたくなりました。


わたしのブログ更新頻度はあまりに気まぐれで、見に来てくださる方をガッカリさせてばかりでごめんなさいね。わたしは長文投稿が好きなのでまとまった時間とまとまった精神力がある時でないとなかなか書けないのです。


でもたまには、通勤中短く書いてみるのもいいかなとふと思いついたわけです。


本日は旧正月の元旦になります。中国にいた頃はなかなかの一大イベントで、同時多発テロのような花火と爆音の中でドキドキしながら過ごしたものですが、日本はホントになーんにもない普通の出勤日です…つまらん。


今朝気づいたことは陽が昇るのが早くなってる!ということ。冬至からひと月過ぎたんですものね、陽の長さが11月並みになってるんですよね、早朝の出勤が日に日に楽になりそうでうれしいです。


春節の朝。東京では筆で横に線を引いたような、細くて長い雲が低い位置に見えますよ。


皆さんの町ではいかがでしょうか。



では、行ってきます。


AZU

2017年1月18日 (水)

ちょっと話題を変えて

長文投稿が疲れたのでちょいひと息。


AZUの近況を書きます。

*昨年末に現在の主治医から統合失調症との診断名をもらいましたが、10年来の付き合いになる中国での主治医イエン先生によると「長くあなたを診てきたけどAZUは統合失調症ではないよ」とのこと。まぁ、イエン先生も言ってたが診断名はあまり重要じゃない。


*昨今、東京で雨後の筍のように増えている観光案内所で働いている。世界各地から来た観光客といろいろ話せてとても楽しい。国際的で自由な雰囲気の中、のびのびと働けている。中国語の次に役立っているのは手話。手話の検定試験に挑戦しようか検討中。


*本が読めなくて困っている。昔の私は活字中毒と言えるほど本の虫だった。毎日単行本1冊は読んでいた。今は活字を目で追おうとすると字がスルスルと視界から逃げてゆく。前のページに出てきた人物が既に記憶になく途中で一旦読むのをやめると内容を全部忘れているので結局最初から読み直し。とても面倒。


*自分の顔があまり記憶できない。思い出そうとしても自分の顔が思い出せないことがある。写真を見ると母親と似てるなと感じた瞬間その写真を破って捨てたくなる。相貌失認なんだろうか、他人の顔もあまり記憶できない。いつも服装で見分けてしまうため、次回服が変わっていたら初対面扱いになってしまう。


*近況じゃないけど、わたしは子供の頃よくお母さんを困らせる質問をしていた。「なぜお母さんは今自分がここに存在していることに疑問や疑念を感じないのか?」「お母さんは将来の展望と永遠という概念にどう折り合いをつけているのか?」「なぜお母さんは哲学的な視点を持たずに生きていられるのか?」…お母さんはただ「アタマいい人は大変だわねぇ。あたしゃそんなこと考えたこともないわ。変なコだね、あんたは」と興味なさげだった。


*結婚9年目にして初めて自分が結婚している事実を理解できるようになった。今までは男友達とアパートをシェアしてるくらいの認識で、経済的な折半だけしか眼中になかったが、今は自分とSHUは友達以上の夫婦なのだということがわかりかけてきた。わたしにとって自分以外の生物はすべて現実味がないので夫のSHUには長い間寂しい思いをさせたと思う。


*わたしは味にうるさい。外食で何かを食べた時おいしいと感じることが少ない。常に(これじゃない。味付けに〇〇が足りてない)と一瞬でわかる。旦那によく「AZUは味覚が鋭すぎる。ソムリエになるべき人材」と感心される。自分基準で味がダメだと一回口をつけても二口目はもう食べられない。好き嫌いが激しい。



あんまりロクな情報ではなかったけれど、
等身大のAZUでした。



AZU

2017年1月12日 (木)

中国での精神科入院記(4)

中国の文革時代、「うちの畑ではこんなにデッカいかぼちゃが収穫できました!」って作り物の張りぼてかぼちゃで祝杯をあげたらしいが、中国ではよく「とりあえずしのぎ」的な演技を目にすることがある。それには仕方ない事情もある。よそ様のお国事情だからそれがいいとか悪いとか議論するつもりはないが、かなりジワジワとツボるのは事実(笑)……


2014年、上海で入院するのも三回目となったわたしはもう中国の病院の摩訶不思議さには十分慣れているつもりだったが、ある日突然「今から名前を呼ぶ患者さんは大事な話がありますので集まってください」と看護師長から連絡があり、何事かと思った。わたしがいた11階の全患者の中から15人くらいが名前を呼ばれ、AZUもその中に入っていた。指定された時間に指定された部屋へ行くと、看護師長さんと何人かの看護師たちが待っていた。集められた患者さんはわたしを除いて全員が上海出身者で、比較的精神的錯乱がなく受け答えのはっきりした頭も良い人ばかりだった。


「ここにいるのは上海人だけなので上海語で説明します」との第一声にわたしが上海語でブーイング。「おーい、上海人じゃない人もいますヨ〜!ワタシは外国人デス!」とわざとたどたどしい上海語で声を上げると、「いつも上海語聞き取れてるくせに何言ってんの」「わからない部分は後でAZUにだけ標準語で説明するからとりあえず上海語でやります」と、有無を言わせず上海語のミーティングが始まった。内容はこうだった。明日の午前中、抜き打ちで国家だか市だかの政府のお偉いさんがこの病院に視察に来る。この入院棟は2階から14階まで13の病棟に分かれているが、そのどこを視察に来るかはお偉いさんの虫の居所次第で今は全くわからない。当日突然11階に来ないとも限らない。だから抜き打ち検査に備えて患者たちの受け答えの練習をしておく、とのこと。何の視察かよく教えてはもらえなかったが、とりあえずわかったのはその視察で万一お偉いさんの気に食わないモノが発見されたら、非常なお叱りというか理不尽なペナルティーを共同責任で負わなければならないらしいのだ。病院としても病棟としても11階の全スタッフにとっても死活問題となるのだ、とのこと。


「ですから今から質疑応答の練習をします。答え方を指示するので丸暗記しその通りに答えるように!」……さあ、ワケわかんないことになってきた。「ではこんな質問を受けたとします。『あなたは自分の病状をちゃんと理解していますか』これに対する答え方はこうです。『はい、よく理解しています。病名と病状、治療の見通しについて看護師長さんが丁寧に説明してくださったからです』……はい、では1人ずつ練習しましょう」
AZUはどう抑えてもニヤニヤ笑いが止まらなかったが、みんなは真剣に練習を始めた。
「はい、担当の看護師さんはわたしが困った時いつも迅速に助けてくださいます」
「はい、看護師長さんから病気に関する詳しい資料をいただき大変参考になりました」
「はい、この病棟の看護師さんたちは非常に誠実で専門的な対応をしてくださいます」
「はい、看護師さんの言うことをよく聞いて服薬と治療に励みたいと思います」
「はい、自分の病気に合った治療法を施していただき大変ありがたく感謝しています」
判で押したように模範解答を次々に暗記させられる中国人患者たち。もうAZUには集団コントにしか見えず、ブホッブホッと咳なのか爆笑なのか怪しい声をなんとか抑えつつ、(日頃困った時は迅速どころか文句タラタラで叱りに来るくせに。詳しい資料とか言って古ぼけたコピーを渡すだけで何も説明しないくせに。専門的どころか採血だってまともにできないくせに。いつも仕事中SNSに夢中になって巡回とか忘れるくせに……)と本当は大声で言いたい日頃の文句を胸の中でムニャムニャと押し殺していた。


AZUは質問した。「でもこの11階には6〜70人くらい患者いるじゃないですか。この中の人以外に質問が来たら彼らはどう答えるんですか?」看護師は答えた。「ここにいる15人以外は全員一旦別室へ隔離するのよ。寝たきりの人を除いて病棟から出すわ。あんな頭おかしい人たちが質問受けたら何て答えるかわかったもんじゃないわよ。つまり、ここに呼ばれたあなたたちは患者の先鋭よ。選ばれた賢い患者たちなのよ。私たちがどんな評価を受けるかはあなたたちにかかっているのよ」……マジか〜、精神科病棟だから言わばちょっと頭おかしい人たちしか入院してないのに、そんな質問するほうが頭悪いだろ。あまりにツッコミどころ満載でAZUは呆れるのを通り越してクスクス笑いが止まらなかった。


そこへいきなりわたしが槍玉に上がった。「そしてAZU!あなたは唯一の海外からの入院患者よ。あなたが答えるべき質問はきっと『なぜ中国に来たのですか?中国語が話せるんですか?』みたいな質問よ。あなたはどんな質問が来ても必ずこう答えなさい。『はい、でもよくわかりません。』あなたはこれで通しなさい」……マジか〜、そんなアホな回答をするためにわたし呼ばれたんか〜。わたしは心に決めた。もし質問されたら絶対本当のことしゃべってやろう。患者への対応はいつも不真面目でテキトーで最悪だって言いつけたろ。


翌日、朝早くから11階の病室は隅々まで丁寧に掃除され、窓の隙間は埋められてロックされ、いつも適当に立てかけてあるものはすべて安全に固定され、患者は全員洗濯したての服に着替えさせられ、ベッドメイクも完璧にチェックされた。お偉いさんは何時に到着するのか?一体何階の病棟を視察に来るのか?11階へは現れるのか?ピリピリした空気がナースステーションを包み込み、いつもはヘラヘラしている看護師たちも身なりを整え粗相のないように最大限の注意を払っていた。そして10時頃、昨晩集められた先鋭の15人を残して他の「頭のおかしい人たち」が一時的に姿を隠すため列をなして病棟から出ていった。残っているのは寝たきりや歩行困難な高齢者たちで、先鋭患者の15人は質疑応答にいつでも答えられるよう準備させられた。


ところが、昨晩(本当のことしゃべってやる)と心で企んでいたAZUの考えを見透かしたのか、急に看護師たちが「やっぱりAZUは外そう。案外この子、下手なことチクリかねないから」と言ってきてわたしを先鋭部隊から外し、なぜか寝たきりの人たちの部屋へ連れて行かされた。「あなたはここにいなさい、動くんじゃない」AZUは不満だった。こんなおもしろそうな演技ならぜひとも参加したかったのに。「どうせみんなだってウソ言わされるじゃん。お偉いさんだって言わされてることくらいわかるよ」とわたしが負け惜しみを言うと、わたしと仲が良かったある看護師さんが核心を突く言葉を言った。「AZU、ここは中国よ。中国では形式主義でその場を乗り切りさえすれば実態はどうでもいいの。覚えておきなさい」


10時半頃、どうやらお偉いさんが到着したらしく、看護師たちのスマホがいっせいにブルブル鳴り出した。他階の看護師と連絡を取り合っているのだ。「まず2階へ行ったらしいわ!」「続けて3階へ行くそうよ!」「低層階だけ見てくれたらいいのに!」「頼む〜11階に来ないでぇ!」「お!5階に行ったらしいわ」「下から攻めてるよね」「何階分見たら終わりなんだろ?」「次、7階あたり来そうじゃない?」看護師たちは緊張した面持ちで他階の看護師たちからSNSでもらう実況中継を固唾を飲んで見守っていた。すると、「やったー!お偉いさんたち、5階で視察を終えて出て行ったそうよ!」「バンザイ!11階には来なかったわ!」「やったー!よかったー!安心したー!」……そのうち、隠蔽されていた他の患者たちも病室へ戻って来て、無事に昼ご飯となった。


日本人のわたしには本当に印象深い出来事だった。中国は形式主義、本物がなくても張りぼてがあればそれでOK。見物している分にはおもしろすぎるくらいおもしろかったが、同時に、こんな虚構の社会で暮らしていると息詰まりそうだな、とも思った。日本人もここまで大げさではなくてもやっぱりお偉いさんの視察の日はいつもより大掃除をして隅々まで失態のないように演技するだろう。そしてお偉いさんたちも「これは普段の姿ではない」と重々知りながらも視察という名目の自分のノルマさえ果たせたらもうその施設に用はないのだ。改善する気もアドバイスする気も褒める気もさらさらない。すべては張りぼてのかぼちゃだ。作り物だろうと何だろうと、その日にそこにあればいいのだ。



世の中がよくなるわけ、ないよね。
弱者への待遇が見直されるわけ、ないよね。
声を上げても届くわけ、ないよね。


「ちょっと頭のおかしい人たち」だけで地球はできているのだから。



AZU

中国での精神科入院記(3)

今行ってる病院でね、こんな紙をもらったの。

80点以上だと「症状が最重度」になるんだけど、
(多動性/落ち着きのなさ)90+
(多動性ー衝動性型症状)90+
(総合ADHD症状)90+
と書いてあって、まあなんと高得点!100点に近いから一瞬すごく成績がいいと勘違いしてしまったけれど、自分がどれだけ落ち着きのない多動なヤツかを数値で示されてしまったわけですね。逆に情緒不安定とか自己概念の問題は割と標準的なのでやっぱり発達に凹凸あるんだなぁ。わたしを擬態語で表現すると「ちょこまか」か「うろうろ」だと思います。「ちょこまか」っていうのは、細かく地味に、でも休まず活発に動き続けてるハムスターみたいな感じ。でもハムスターより目的がハッキリしてない、まるで道に迷ってるような動き方をするので「うろうろ」なんです。


わたしはハムスターを飼っていたことが一回だけあるんですが、もう動きが目まぐるしくて自分を見ているかのようで。ちょっとは止まれよ!ちょっとは落ち着けよ!と思わず声をかけてしまうんだけど、それってわたしがいつも周囲に言われている言葉なんだよね。鼻が一秒も休まずにヒクヒクヒクヒクしてるのが気になって、見てると疲れてしまう。それはふれあい動物園とかでウサギを見ても同じで、わたしはいつもウサギの鼻を指でギュッと押さえてヒクヒクを無理やり止めようとするので、ウサギにひたすら避けられます。だからハムスターとウサギ系は家でもう飼いません。夜のハムスターなんか眺めてると、巨人になって自分を空から観察してるような気分になってしまう。そのくらい、落ち着きのないわたしです。


上海での入院中もこの多動ゆえに医師から大目玉を喰らい、周りを振り回し、そしてみんなから可愛がってもらいました。


ちょこまかAZUはうつ状態になっても多動が収まらない。2006年に初めて上海の精神科閉鎖病棟に入れられた時、わたしは反抗し、ものすごい力で大暴れした。その結果、ナースステーションの目の前の部屋の一番手前のベッドで身体拘束をされることになった。中国の身体拘束は安全ベルトで固定するなんて生易しいもんじゃない。これから火あぶりの拷問にかけられる囚人のごとく、両手両足を大の字でベッドにくくりつけられ、身体もガリバーみたいにがんじがらめにベッドに固定される。わたしはそんな扱いを受けることに憤慨し、さらに怒り狂った。「日本人をなめんじゃねえ!」と中国語で叫びながら無理やり体をよじって身体拘束のひもを自力で解いて見せたりした。だから余計にきつくがんじがらめにされ、トイレに行く以外は解いてもらえなくなった。


意識がハッキリしない中、「お前ら、日本人にこんなことするのか!」とけんか腰で叫んでしまったばかりに、わたしは反日派中国人患者たちのいじめの的になった。売り言葉に買い言葉で口々に「黙れ!小日本!」「日本に帰れ!」と暴言を浴びせられ、経験したこともない侮蔑の嵐にわたしは火のついたように泣き叫んだ。付き添ってくれた日本人の友人が「申し訳ないが、かわいそうで見ていられないので目立たない位置のベッドに移動させてあげてくれないか」と交渉してくれて、やっと部屋を変えることができた。でも心底傷ついたわたしは身体拘束を解かれるやいなや、シャワーヘッドに長袖シャツをかけて首を吊った。わたしの担当看護師がそれを見て大泣きした。「AZU、もうやめて!わたしが担当している患者が院内で死んだらわたしの評価が思いきり下げられるの!仕事を失うわ!」それを聞いてますます怒ってしまったわたしだが、病院中を走り回り夜も寝ようとしないAZUに皆が手こずっていた。


でももともとお調子者なAZUは、病院の雰囲気に慣れてくるとあっという間に適応してしまい、いつしか病棟の人気者になっていた。担当看護師を困らせるのがおもしろくて、彼女がナースステーションにいるとナースステーションの壁に足をかけてしばらく倒立して驚かせ、「やめなさい!」と怒られたり。わたしのことを日本人の蔑称である「小日本」と呼んでいたはずの年上の男性はいつの間にかAZUのパシリになっていて、わたしは彼のことを「ゴリラ」と呼んでいた。もともとガキ大将気質のAZUなので、友達も手下もたくさんできた。狭い6階の病棟は男女混合の病棟だったが、ちょっとした色恋沙汰もあった。超イケメンの若い患者くんと超美形の不思議少女と日本人のAZUの三人はすごく仲が良かったけど完全な三角関係だった。今思えば当時は花の20代だったし、わたしも彼氏がいなかったので病棟内で遊びたかったんだなと思う。


夜になるとより活発になるAZUにとって20時就寝、5時起床の入院生活は本当に退屈だった。20時に皆が寝静まった後、アイさんと呼ばれるお手伝いさんが夜間の見張りをする。宿直の看護師と医師ももちろん常駐しているけれど、見張りはアイさんといういわゆる夜勤パートのおばさんたちに任されていた。躁状態で眠れないわたしはいつも眠そうなアイさんに夜通し絡んでいた。「ねえ、おばちゃん。今日はわたしが見張りをするからおばちゃんわたしのベッドで寝てきていいよ。一時間20元でどう?」AZUは病棟内で商売をするのが得意だった。「えー、高いな。10元だな」とおばちゃんも乗ってくる。「よし、じゃあ15元で決まり!わたしに代わりにバイトさせてよ、看護師には黙っててよね」とノリノリなわたしだったが、おばちゃんはいつも最後には「いいのよAZU、早く寝てらっしゃい。これはわたしの仕事だから」と言って笑っていた。


病棟内での商売といえばわたしは朝5時に起床時間を迎えると「さあ、絵を描いてもらいたい人、並んで並んで!」と行商を始めていた。持ってきていたスケッチブックに似顔絵を描いてあげ、10元で売るのだ。相当な悪徳商売だが、何人かお得意様がいた。日本のお菓子や文房具も売れた。本当にどれもこれも日本の精神科病棟ではあり得ないことばかりで、道理でわたしは日本の病院に転院しても毎回なじめずにすぐに退院させてもらっていた。中国の「なんでもあり」なカオスさとテキトーさが、ちょうど心地よく、楽しくもあった。中国の病院ではいつもみんなの輪の中心にいる存在だったが、日本の病院に入ると管理され尽くした監視体制に急にひどいアレルギー反応が出てしまう。自分らしさをみるみる失い、どんどん精神病患者らしさを身につけてしまうのが日本の精神科。そういう意味ではハチャメチャで自由な雰囲気の上海での入院が自分にとっては一番ラクだった。


病棟を夜昼構わず走り回り、病室から病室へ歩き回り喋りまくり、廊下では倒立をし、大声でひとりコントをしてゲラゲラ笑い、みんなと中国のボードゲームに興じ、ご飯は盛られたら速攻ゴミ箱に放り投げ、お見舞いでいただいた日本の菓子で腹を満たし、夜中はアイさんと寝ずにおしゃべり。やりたい放題の問題児AZUだったが、そんな幼稚園のような環境で一ヶ月も過ごすと希死念慮が薄らいでくるから不思議だ。



ハムスターAZU、このブログを書いてるのも午前3時。
宵っ張りな問題児です。



AZU


2017年1月 9日 (月)

中国での精神科入院記(2)

中国で精神科に通うという選択をする日本人は少数ながらも実はいる。

わたしも自分が通っていた精神科病院で別の日本人患者に出くわしたことが数度あるし、欧米人の患者も見かけたことがある。精神科の病名を持ちながら現地で生活している人の中には「日本に一時帰国した際にもらえる限りの薬をもらってきて次の帰国までもたせる」という人もいれば「通院と処方は中国でするけれど検査や入院が必要な時は日本に戻る」という人もいる。「せっかく中国にいるのだから体質改善を目指して漢方を試したい」という人にも会ったことがあるし「日本語や英語が通じる日系や欧米系の内科でとりあえずもらえる薬をもらう」と言っていた人もいる。最近はまた数年前とは事情が変わってきている部分もあるに違いない。「上海で働く人のメンタルヘルス相談」なるサイトやカウンセリングサービスもあるらしい。


外国で働きながら治療するのは簡単ではない。まず病気が前面にバレたらビザ支給に影響が出るだろうし、雇用主だって契約更新を渋るだろう。現地の精神科病院はたいてい中国語しか通じないし、使えても英語まで。外国人にとって言語の壁プラスもうひとつ大きな障壁になるのは費用の面だ。海外旅行保険では精神科と歯科治療は最初から除外されることが多く、精神科に通院しようと入院しようと患者の10割負担になる。日本で健康保険に入っていれば後で払い戻しもあるが、住民票を抜いてしまっていると使えない場合もある。会社負担で保険をつけてくれている場合も精神科医療は対象外である上にそもそも会社に病気がバレると何かと不都合もある。それに日本という住み慣れた環境から異国の異文化圏に放り出されるのは精神障害者にはとてもキツい。だから中国に来て発症した人やもともと比較的軽症の人を除けば、好きこのんで中国で治療しようなんて思いつく人はなかなかいない。


「なかなかいない」と書いたのはここにそんな変わり者が現に1人いるから。AZUは1回目の移住でうつが悪化して現地で緊急入院して帰国したのに、懲りずに上海の同じ病院で再び治療を受けるために2回目の移住を果たしてしまった変なヤツである。日本の福祉事情は北欧に30年遅れを取っていると言われるが、中国の精神医療はひいき目に見てもさらに30年遅れている。だったら北欧に行けばいいのに中国に行ってしまった理由は、どんなに上手い言葉で表現してもわからない人にはわからないだろう。逆にわかる人には理由の説明なんか要らないかもしれない。結局、精神医療はどんなに機材が最新でも施設が機能的でもあまり治療効果に関係がない医療分野であり、要は医師と自分の相性、それこそが最も重要なんである。わたしが中国に行ったのはわたしと相性ぴったりな精神科医が上海にいたから。それが理由である。


わたしの主治医はイエン医師といってわたしよりほんの少し年上の女医さんである。もう付き合いは10年を超える。2006年に彼女がわたしの主治医になった日から相性の良さが目立って表れていたと思う。わたしが「いやだ、入院なんかしない、入院はいやだ!」と泣きじゃくっていた時、イエン医師は自分からスッと右手を出した。「わかったわ。じゃあ、あなたが国慶節の休暇の後も自殺しないでわたしに会いに来れるなら今そう約束してちょうだい。約束できるなら握手しましょう」わたしはしゃくり上げながら「自殺しないから、しないから」と首を振りながら泣き続けたが、なぜか先生の手を握れなかった。その様子を見てイエン医師は「措置入院を命じます」と一筆書いて有無を言わせずわたしを入院棟へ連れていったのだった。結果的に先生の瞬時の判断は正しかった。わたしは当日家に荷物も取りに帰れずに入院棟へ行かされたのだが、国慶節の日に外出許可をもらったとたんにホテルから飛び降り自殺を図ったからだ。当然外出許可はあっという間に剥奪され、入院棟へ強制送還となった。


イエン医師はわたしの性格も傾向も知り尽くしていて、彼女にだけは今も頭が上がらない。入院中は誰にでも反抗的だったわたしだが、先生のカウンセリングの時だけは素の自分をさらけ出すことができた。60分のカウンセリング中、先生は何もメモを取らずまっすぐわたしを見てわたしにたくさん語らせた。わたしの話は当時MP3と呼ばれたボイスレコーダーですべて録音しており、先生はただ相槌を打ったり先を促したり時々質問したりするだけだった。わたしが思っていること、悩んでいることをすべて言葉にできるまで辛抱強く聞き役に徹してくれた。わたしが中国語の語彙で詰まると助け舟を出してくれて、上手く表現できないと「それはこういうことかしら」と確認を取ってくれたり。60分間、まるまる自分の気持ちを聞いてもらえるなんてすごく気持ちがよく、わたしはイエン医師のカウンセリングを毎週心待ちにしていた。先生は毎回録音を止めてから短く自分の話をしてくれたり、次のカウンセリングまでにやっておく宿題を教えてくれたりした。そして「お疲れ様、AZU。また今度ね!」と笑顔で送り出してくれた。


わたしが2012年、2014年に入院した時には「入院棟での主治医」がそれぞれいて、イエン医師はわたしの担当ではなかった。でもわたしがイエン医師の言うことしか聞かないことを知っていた入院棟の担当医はわたしがおねだりするといつもイエン医師を呼び出してくれて、仕事の合間にサプライズでカウンセリングしてくれたりした。診療報酬もつかないしそもそも担当でもないのにフラッと入院棟へ会いに来てくれて、二人きりになれる場所でざっくばらんにおしゃべりしてくれる先生のことがわたしは大好きだった。「わたしは普段研究室にいて外来診察もあるし、しょっちゅうはAZUに会いに来れないからあなたに課題図書を置いていくわ。わたしとカウンセリングしてると思ってこれを読んでみなさいね」と言って入院部屋に本を差し入れてくれたこともあった。ものすごく胸に刺さる内容で、その後はその本の感想を述べ合うのがカウンセリングの主な話題になった。


退院してからもイエン医師は「AZUとは外来診察の時間ではゆっくり話せないから、処方箋が必要な時だけ外来に来なさい。話をしたい時はわたしの研究室に直接おいで」と言ってくれて、これまた診療報酬も出ない日に訪ねていくとじっくり話を聞いてくれたものだった。わたしが生きることを完全に諦めようとしていた時は「AZU、わたし普段はAZUを叱らないけど今日はお説教させてもらうわよ」と言ってある動画を見せてくれた。大連で育った盲目の少女が按摩師になるという誰もが当然と考えていた運命を自らの力で変えてみせ、中国史上初の盲目のアナウンサーになるまでの話だった。「AZU、わたしね、この動画を見た時ずっとAZUのこと思い出してた。なんてAZUに似てる子なんだろう、と驚いた。自分で自分の運命を変えられちゃうパワーを持ってるのがAZUじゃなかった?」イエン医師のこの説教を聞いてわたしは涙が止まらなかった。この動画は今でも時々自戒のために観ることにしている。


今では海を隔ててしまったけれど、わたしは今でも自分の主治医はイエン医師だと思っている。彼女に感じるのは依存ではなく信頼であり、崇拝ではなく尊敬だ。いつか、彼女から完全に卒業できる日が来るといい、とも思っている。寂しいことだけど、イエン医師が一番喜ぶのはきっとわたしが彼女を必要としなくなる日がくることなのではないだろうか。


2014年のお正月に「イエン先生、新年が幸せな一年でありますように。でも先生の商売は繁盛しませんように」とメールを送ったら、「商売繁盛だけはお断りよ」と絵文字入りの返信が来た。


今夜あたり、久しぶりにメールしてみようかな。



AZU

2017年1月 5日 (木)

中国での精神科入院記(1)

AZUは中国の上海市で3度入院したことがあります。

3度とも精神科です。2006年、2012年、2014年にそれぞれある程度まとまった期間入院していました。以前のブログ記事では2012年の入院だけに話題を絞って時系列順に綴っていたのですが、2006年と2014年の入院記は全く書いたことがなくて。今回は時間が経過してしまっているので時系列順にとはいきそうもないのですが、脳裏をよぎった順に思い出して書いてみたいと思っています。

そもそも単独で中国に行こうと思った理由は、表向きには、
①本来行きたかったのはロシアだったが当時は本当にビザが取りづらかった。
②中国に行くつもりは当初全くなかったが、ロシア語より中国語の方が得意だった。
③中国もアリかなと思い始め「浙江省より北の町なら移住してもOK」と考えた。
④上海での就職のお話があった時地図を広げたら上海は浙江省の一つ北だった。
⑤というわけで自分からGOサインが出て上海に移住することに。

…なんだけどね、もちろん裏の事情もあるわけで、
①今で言う依存症の「毒親」の母の家から一日も早く飛び出したかった。
②が、日本国内ではどこにいても母の支配圏内であることに変わりはなく、
③こりゃ海外に行くしかないと思い始める。さすがに親は追いかけてこないはず。
④10月に自殺未遂してうつ病との診断をもらっており翌年1月から海外逃亡を企てる。
⑤4月に北京と上海へ下見に行き、5月初頭には所持金3万円だけで上海へ単独移住。

…表も裏もどちらもホント。うつ病で寝たきりに近い生活を送りながら海外逃亡を企てるあたりの異常な行動力と生命力のせいで病名は後に「双極性障害」に変わった。精神科の主治医は英語で紹介状を準備してくれて「中国に行っても必ず現地の精神科を受診し投薬を続けるように」と厳しくわたしに言い渡してきて、その言葉に従って引っ越した翌月には上海で一番大きな精神科の戸を叩いたわたしだった。


当時は発達障害とか双極性障害とか統合失調症とか…まだそういう病名に関する予備知識もないまま、ただ無気力と希死念慮だけにとらわれていた。だけど本当に単極性のうつ状態にある人が単独で海外へ逃亡したりはしないわけで、わたしは医師から「生きるエネルギーが劇的に強い」と評されたとおり当時から他の病名があったのだと思う。最近「ADHD」の診断に結びついたWAIS-Ⅲの知能テストでわかった限りでは私は処理速度が非常に速くて150近かった。もちろん結果に凹凸が認められたから発達障害が疑われたわけだけど、一概には言えないものの自分は「こうと決めたら瞬時に実行するタイプ」なのかなとも思う。いつもあまり迷いがないほうだ。


いつどの瞬間にも「死にたい」という願望にとらわれているのはその頃から変わらず、上海に行ったばかりの頃も目立たずに死ねる場所を無意識に探すような癖があった。でもある日、上海の外灘(バンド)の南側の歩道橋に1人で上がった時、左は租界時代の重厚な建物群、正面には黄浦江を挟んで陽の光を浴びる東方明珠(テレビ塔)が見える景色を独り占めしている贅沢な時間に身を置き「誰もわたしのことを知らない街に来たんだ!日本の誰もわたしをここまで追ってはこれないんだ!わたし、ついに自由を手に入れたんだ!」と無性に叫びたくなった。その頃はテレビ塔の周囲にまだ今のような高層ビル群は立っておらず、シンプルで閑散とした浦東の光景だったが、あの時覚えた幸福な解放感を今でもはっきりと覚えている。外国に逃げて来てよかった、ここでならもうしばらく生きていけそうだ。これから上海で出会うであろう理不尽な喜びたちときちんと向き合う覚悟ができた瞬間だった。


就労ビザに切り替えるために会社の男性社員のオートバイの後ろにノーヘルで跨って、巨大迷路のような上海らしい古い住宅地を全速力で駆け抜けた時の爽快感。キャーッ気持ちいい〜とわたしは大声で笑った。電柱や電線に布団や洗濯物を豪快に干すお母さん、タバコをくわえたまま屋外の流し台で山のようなどんぶりを洗うお父さん、鼻くそほじりながら陽の下で宿題をする子どもたち、地面にチンゲンサイや川魚やたまごを並べて客を待つ商売人、おなかを縦に切り裂いただけの巨大な豚をロープでバイクに縛りつけて走る女性、大量のカエルやスッポンをネットに入れて売り歩く男性、歌を口ずさみながら昔ながらの洗濯板で靴下を洗うおばあさん、ボロボロの古い家屋の屋根裏部屋にできた陽だまりで暖まる猫たち、リヤカーに緑の干しぶどうや黄色いドライフルーツなどを載せた新疆の出稼ぎ人、サンザシ飴や切ったハミウリを売る人もいれば色とりどりの香料を入れてタピオカ飲料を作る人もおり…。命と命がぶつかり合う市場や崩れかけた城壁跡をオートバイから眺めていたら、昔ながらの上海のワンシーンワンシーンがたまらなく愛おしくて。


2017年の上海がもう失ってしまった光景が、2004年の脳裏には刻み込まれているよ。


生きてるってこういうことだ。
生きてるって泥まみれで太陽の温もりがあって、いろんな匂いが混じっていて、いろんな色に囲まれているってことだ。生きてるって日々の当たり前な営みがあって、怒る声もあれば笑い声もあって、埃っぽくて、甘酸っぱくてしょっぱくて、頰に当たる風が涼しくて、乾いた涙が白い跡になって残るってことだ。


こうしてわたしの上海生活が始まり、わたしの上海での闘病記が始まった。



つづく…


AZU

2017年1月 1日 (日)

2016年に起こったこと

去年のことを言っても鬼は笑わないだろう。
だから年が明けた今、書き留めておく。


2016年はあまり笑えない一年だった。


ある日、胸さわぎを感じて電車を降りると駅前に救急車が停まっていた。(あぁ、きっと…)不安と共に(あの場所なら大きな外傷はないはず)という安堵感を覚えた。救急搬送されようとしていたのは旦那のSHUだった。通行人の女性が119番してくれたのだ。どんなに心に痛手を負ったか、わたしにはわかるよ。キミが搬送されてからわたしが電車を降りていたらキミの行方は分からずじまいだったろう。でもほら、ちゃんと居合わせたよ。病院のリカバリー室でキミの手を握っていた。うちは入院する側と付き添う役目が交互にくる。自殺を図ったキミが意識を取り戻して「おいしい」と頬張った、病院の麻婆豆腐。一緒に家に帰れてよかった。リハビリのジム通い、頑張ったね。


26連勤も歯を食いしばってやり遂げたわたしに「発達障害である」という検査結果が舞い込んできた。オフィス勤務に無理が出てきた。明らかに人並みにできない業務がある。「AZUさんだけ大変なんじゃありません、みんな忙しい中でもちゃんとやってます」というごく普通の言葉をかけられた翌日、プツンと会社に行けなくなった。「鬱状態が著しく増悪したため労務継続は困難である」という一枚の意見書と共に会社を後にした。2016年だけで6つの職を転々とした。辞める時はどこも「鬱状態の悪化」が原因だったけれど、家計を支えなければ…稼いで役に立たなければ…と休むわけにはいかなかった。


そして気づいたらベランダに目隠し用の布を張り、首を吊っていた。本当にこれで自由になれるんだ、休めるんだ、もう神様の記憶の中で眠れるんだ、という幸福感を味わった。ところが愛犬のナオが吠えまくり、そしてわたしがいなくなろうとしたショックからかナオの目が開かなくなってしまった。ナオはわたしが2回死のうとしたどちらの時もひどく具合が悪くなってしまった。わたしは自分が高校生の時に飼っていた猫を自分のせいで病気にしてしまったことを永遠に悔いているから、ナオにも同じ仕打ちはできなかった。泣きながらも、戻ってきた。目隠し用の布だけは引越しの日まで外せなかったが。


夏には幻聴が始まった。「こいつ、死ぬまで働かせようぜ」「こいつがやりたいってんだからやらせてやろうじゃん」「おい、稼げよ。もっと稼げよ」……保護を求めて警察に飛び込もうとしたが駅前だったこともあり埼玉県から神奈川県、東京都から栃木県へとめちゃくちゃに移動してやった。Suicaには1000円も入ってなくて。とりあえず逃げなきゃ、遠くへ遠くへ。SHUは必死にわたしの居場所を探して車で見つけ出してくれてそのままわたしを連れて本当に遠くまで移動してかくまってくれた。もう自分が自分じゃなかった。医療にも行政にもメンタルヘルスの窓口にも他の電話相談にも想いは伝えられず、「ここはもっと深刻な事態の方のための窓口なんです」と言われたり「ちょっと事態が深刻なのでこの番号ではお役に立てません」と言われたり。周囲が全てわたしを避けていた。


病院を転院したタイミングで「パーソナリティー障害」と言われた。もうどうにでもしてくれ、という思いから急激に太った。金切り声を上げるのは気づいた人に110番してほしかったからなのに、病院にいると心が落ち着くわたしは診察室ではIQが高い。先生はいつも本当に弱い時のわたしを診ていない。「もう今さら発達障害とか障害名を増やそうとしなくていいよ」となだめられるが「診断名がわかると特性が特定できるから対処しやすくなるんです」と答えて答えをほしがるわたし。年末の仕事納めの日にやっと今の診断名が出た。「統合失調症」……キターッと思ったが十分に心当たりもあった。夏のわたしは明らかにトーシツだったから。


うつ病も双極性障害も統合失調症も解離性障害も、わたしの場合9割がた後天的である。なりやすい条件を持つ人がなりやすい環境に長期間置かれるとなってしまうもの。わたしには精神的な脆弱性があるからもともと精神病になりやすかった下地があり、そこへ環境の追い討ちがあった。後天的だから学習することで身につけてしまった不自然な不幸さも持ち合わせている。もう統合失調症まできたら精神科界隈で全階級制覇したような気分にもなる。


なんでもごじゃれな2016年だったが、元旦になってみればもう全部過去だ。


2017年にもきっと不幸な要素はある。だけど。


生きていることに実感が持てなくても、真剣に生きてやる。
外野に何をどう言われようと、外野は所詮外野にすぎない。
想定外なことにジタバタなんてしない。そこまでが想定内。


今年もこんなAZUですが、よろしくお願い致します。



AZU

2016年12月22日 (木)

女子だけ眠れない夜

我が家は旦那以外全員女子。
AZUもワンコもニャンコも。

女子全員、夜中の3時も起きている。


AZUはツイッターでつぶやき、
ワンコは毛づくろいにいそしみ、
ニャンコは営業であちこちに顔出してる。


昼間、旦那のSHUにこんなこと言われた。
「帰りたい家にしたいなぁ」と。
帰宅する足取りが重くて駅で飲んでしまう日もあるんだね。それはかわいそう。私も悲しい。どうしたらキミが家路を急いでくれるんだろう。


旦那の実家は「帰宅ほど気の重い道のりはない」と断言できるような家庭だった。清潔好きなSHUには耐え難いほど管理も手入れもされていない家だった。安らげる居場所がもともとない上にどこもかしこも汚いなんて彼には牢獄に等しい。


「物はこれ以上減らせない。夏の引っ越しの時に最低限まで減らしたからね。だとすると、うちに足りないのは今出ているものを全部しまうための収納家具だね。さぁ、買いに行こう」と旦那を連れ出してホームセンターへ。木製家具にこだわりがあるAZUだけど、今は見映えが悪くなければ安いものでとりあえずOKってことでプラスチック製の五段引き出しを2つ買う。


うちのSHUさんほど私物の少ない男性は日本にいないんじゃないだろうかと思うくらい持ち物が少ない彼。案の定引き出しを3つ使ったら入れるものがなくなった。私は5段使い切ったけど…。


これ以上ないくらいシンプルな家具を買ってきたおかげで散らかりアイテムをすべて収納でき、SHUの肩の重荷はひとつ下ろせた。


「帰りたい家であること」
三井ホームのキャッチコピーみたいだけど、やっぱり旦那には「家路」という言葉に安心と温かさを感じてほしいから。


きれいな家に帰っておいで。


AZU




2016年12月 7日 (水)

中国での入院日記、再UPします

長文ブログ、問題点は混みこみの山手線内ではとても書けない代物だってことです。
ツイッターとかWeChatの短い投稿ばかりになってしまう。
でもまたブログ熱が復活してきたので今後ブログでやってみたいこと、思いついた!



じゃーん。



2013年1月から6月まで半年間毎日投稿し社会にセンセーショナルなウエーブを巻き起こした(➡︎ウソ)、中国の精神科病棟入院記を加筆修正してもう一度アップしたい!2013年の記事はブログから削除したためWeb上では残っていないのですが、AZUの手元にはデータとして残っているのでいつかもう一度書き加えたいと思っていたんです。

AZUは2006年、2012年、2014年と計3回上海の精神科閉鎖病棟に入院していました。2015年に帰国し一時帰国のつもりが本帰国になり東京で働き始めたため、新しい生活リズムの中で中国の記憶も薄れていく一方でした。2016年になって自分の精神科通院で大きな出来事がありました。診断名が根本から変わり、そして数も増えたことです。双極性障害だけだと思っていた各症状は二次的な障害であり、根本にあったものは発達障害だったということ。ADHD(注意欠如多動性障害)が疑われていますが、それ以外にもパーソナリティー障害や解離性障害も根底にあり表面に目立って出てきているものがいわゆる二次障害のほうの双極性障害だった、と。

日本の精神医療環境はどんどん変化しており様々な発見や新しい進歩とともにいろんな「ブーム」が来ては去り来ては去る。それに伴い、もう長年精神科のお世話になっている私みたいな中堅患者も急に診断名が変わったり薬の内容がガラッと変更になったりするわけです。今現在は「大人の発達障害」が一大ブームとなっているため結果的に私もそれにヒョイと乗っかった、というわけです。今後も精神科界隈で何かの新しい進展があれば私の診断名もさらに二転三転するかもしれないというわけです。

だから今このタイミングで2016年現在の自分に至った経緯を自ら見直す意味で過去記事を掘り起こしてみようと思うのです。ついでに、第三者である皆さんにはあくまでおもしろい読み物のひとつになったらいいなと思うのです。




これ、続いたらけっこうおもしろくなりそう。
わくわく。
あくまで続いたら、ね。


AZU

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