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2017年10月

2017年10月31日 (火)

体の痛みで心を救う子達

私は境界性パーソナリティー障害で、些細なことで傷つきやすい特性がある。その些細なことというのがたいていの人にとっては本当にたいしたことない、どーでもいいようなことなのだ。目が合った人が即座に顔をそらした、とか…向かいに座ったおじさんがカバンをグッと自分に寄せた、とか…中国語のイントネーションの間違いに気づかれた気がしたとか…上司が一瞬声を荒げたような気がした、とかもうほとんど思い込みの世界なんだけど、その瞬間私は深く深く傷ついてしまい、しばらく底なし沼から戻ってこれないのである。その妄想上の敵意や疑念が私個人に向けられたものではなくても傷ついてしまう。明らかに他人に向けられた視線や言葉や叱責だとしても、私はそれを耳にしただけで、その人以上に落ち込んで底なし沼にズブズブ沈んでいくのである。


私は小さい時から感情の刺激にとても弱かった。恥ずかしい思いをさせられたり、怖くなったり悔しい気持ちになったりすると、心臓が爆発するんじゃないかと思うほど、鼓動の大きな音がはっきりと聞こえるくらいバクバクして、自分はいつか傷つきやすいのが原因で文字通り心が折れてショック死するんじゃなかろうかと本気で思っていた。こんなに傷つきやすかったら、大人になんかなれない。大人になったら私はきっと心の傷を負いすぎて死んでしまう、というのが小学生の頃の私の真剣な悩みだった。


お母さんにめちゃくちゃ殴られた。反抗しなかったのは私に反抗されたらお母さんがあまりにかわいそうだったからだ。お母さんにめちゃくちゃお金を使われた。それでも反論しなかったのはお金がなくて困っているお母さんを見るのがあまりにかわいそうだったからだ。私は頑張って貯めた結婚資金を取り上げられて生活費に充てられた時、心底絶望したのにお母さんに「何すんの!返して!」と言えなくて、言う代わりに無言のままかみそりで自分の腕を切った。人が私の言葉で傷つくのを見たくないから、自分が本当に言いたいことは飲み込み、誰も見ていない時に自分に刃を向けることで安堵感を得ていた。心が傷つくより肌が傷つくほうが何倍も楽だった。私は心が本当に深く傷ついてしまうと、よく布団に潜り込んで声を出さずに自分の首をかみそりで切っていた。自傷行為は心の激しい痛みを体の痛みで和らげるためにする、とは本質をよく言い得たもの。私はまさに自らの心の傷つきやすさや気持ちの異常な繊細さゆえにハートが激しく痛む時、自分の体のどこかを切ってそちらの痛さを強く感じることでなんとか心を鎮めていた。冬の間、首を覆うストールが手放せなかったのはそのためだ。


傷つきやすいのは今も変わらない。本当に他人から見たら屁でもないような理由で、私はすぐ心の底なし沼にはまりこんでいく。傷つきやすいのをやめたい。できれば鉄のメンタルになりたい。私の傷つきやすさは控えめに言っても明らかに損だ。例えば私はフィギュアスケートを見るのが大好きなのにリアルタイムで見る勇気がない。自己のメンタルとの闘いにアスリートが負けてしまうのを見ると、その人以上に落ち込んでしまうからだ。いや、一流アスリートは冷静に自分の演技を振り返り失敗も敗北も正面から見つめ、次の試合に向けて気持ちを立て直す訓練を積んでいるんだし、勝ち負けや成功失敗があってこその競技だ。それはわかってるんだけど、強い思い入れを抱いて臨んだ試合でどうしても決めたかった技が失敗に終わると、私は選手に対して無駄なほど感情移入してしまって心臓が大荒れ模様になってしまうのだ。で、私は選手本人と違ってメンタルトレーニングができていないから、またズブズブと底なし沼に入ってしまう。だから大好きなフィギュアスケートでも、既に結果がわかっている競技とか成功した演技の動画じゃないと怖くて観れないのだ。


あー、損してるな私。


他人の気持ちを自分のこと以上に強く激しく感じてしまって、他人の分まで傷ついているんだもの。なんて損な役回りなの。そして人を傷つけたくないから本音を言って全身でぶつかる勇気もない。ちまちまと、ちまちまと、自分を切りつけて自分をなだめていくしかない、小さな小さな臆病者。


どうしたら人は人、私の唯一守るべきものは私自身の心なのだと思えるようになりますか。


痛いよ、痛いんだよ。
体も。心も。



AZU

2017年10月30日 (月)

始まってしまえば楽な月曜

最近「サザエさん症候群」がすごい。
翌日が月曜、というのが受け入れられない。


でも私は月曜、休みなのに。
なぜ休みの人が「サザエさん症候群」になるのか。


私はたぶん負の感情を共有してしまいがちなのだ。
不安や焦燥感、倦怠感や怖れを感情移入しすぎ。


今朝、月曜の朝は早くから目が冴えていた。
会社に行くのがイヤすぎて、眠れないのだ。
私は休みなのに、だ。


学校に行くのが憂鬱な子供たち。
会社に行くのが憂鬱な大人たち。
そういう日本の月曜の苦しみが、伝わってくるのだ。


でも始まってしまえば、
始業時間を過ぎてしまえば、
一週間が幕を開けてみれば、
割と平気に過ごせるそんなブルーマンデー。



AZU

2017年10月29日 (日)

雨続きの週末は

週末はなかなか自分1人の時間が取れないのでブログが書けません。旦那の昼寝時間を使ってちょびっと書きます。


旦那のSHUとはドライブ中によく精神面の話をします。「私が人間的にも器が大きくなって懐のデカい人になって母を心底赦して過去の全てを(そんな時代もあったね)と笑える日が来たら、私は病気からも障害からも解放されて楽しく元気に自分の人生生きられるのかな?」と私が言ったら、旦那は「AZUはそうやって何でも自分の努力でなんとかしようとしてきた結果、病気になったんじゃないの?」とのこと。


そう、私はいつも自分さえ成長すれば、自分さえ見方を変えれば、自分さえ賢く優しくなれば、事態を改善できると思い込んでいる。実際にそういう部分もあるだろう。自分次第で地球は丸にも四角にもなる。変えられないものは他人と過去、でも変えていけるのは自分と未来。だから自分は成長し続けなくちゃダメだ。人間の努力次第で克服できる壁のほうが多いんだから。


でもネガティブと言われようが、変えられないものがあることも思い出してほしい。それは他人と過去。過去に他人から受けた痛みや恐怖の数々は変えられない事実として残り続けるんだ。自分の努力でそれを乗り越えてみせる、なんていう精神論が正論なら、世の中のココロの病気の人はみんな努力不足なのか?やる気が足りないのか?


いや、そうじゃないんだよ。

治らない傷だってある。一生我慢し、痛みを耐え続けなければならない傷だってある。努力で治せるならとっくにしてる。努力で解放される痛みならとっくに解放を選んでる。でも、努力でできることには限界があるんだよ。だから精神論で私をさらに苦しめたりしないでほしい。もう、もう、十分に痛いのだから。


雨の日は弱気にもなるよね。



AZU

2017年10月27日 (金)

休み休みに課題を課す

しばらく仕事が休みになります。
精神的に仕事に行くのがつらい日が多く、医師に甘えて⁉︎診断書出してもらったのです。11月から休業だけど、10月後半もほぼ休業状態。


で、少し休み中の目標と計画を立てました。
休み中はダラダラしていてもいいんだけど、私の場合は体が不調というより精神的に自信を取り戻すための休暇だから締めるべきところは締めておかないと。ゆるゆるダラダラ過ごしても太るだけですからね。


起床時間…9:00
朝の散歩…9:30〜10:20
昼寝時間…12:00〜14:00
お買い物…16:00〜17:00
夕飯作り…17:00〜18:00
TVを見る…19:00〜21:00
夜の散歩…21:00〜21:30
服薬時間…21:30
体操時間…21:30〜22:00
入浴時間…22:00〜22:10
就寝時間…23:00


さぁ、ツッコミ待ちですよwww
21:30にやること多すぎだろ、とか。
毎日12時間も寝るのかよ、とか。
風呂たった10分かよ、とか。
まあ、こんなの目安ですから大目にみてください。


目標は。
◆3キロ痩せる。
◆たくさん陽を浴びる。
◆お菓子食べない。
◆眠くなったら寝る。
◆毎日ブログ書く。

ということに。


裏目標は。
◇電車に乗らない。
◇会社のメールは無視する。
◇できるだけ仰向けで寝る。
◇yahooニュースは読まない。
◇毎日同じ服を着ない。

ということに。

裏目標のほうが達成可能だな、きっと。


せっかくいい機会だから、ちょっとだけダイエット。
みなさん「こうしたほうがもっと健康的だよ」とか気にしなくて大丈夫ですからね。ご提案は胸の内に秘めといてください。


うちの犬みたいに、猫みたいに、
省エネ低燃費生活送ります。



AZU

2017年10月26日 (木)

障害話を切り出すべきか

障害者といえば、昔は目の見えない人や車椅子の人など一目見て「あ、障害があるんだな」とわかる人が多かった。多かったというより、そういう人だけが障害者だと認知されていたような気がする。今は違う。内部障害を持つ人や発達障害を持つ人など一見「え?障害なんてあるの?全然わからないよ〜〜」と反応されがちな障害もキチンと認定される。人口に占める割合で言ったらかなり多くの人がなんらかの「障害」に該当するようになった感を受ける。


「私、実は障害があるんだ」と誰かに告白されたことはありますか?その時あなたはどんな反応をし、どんな言葉をかけましたか?純粋にびっくりしましたか?ああやっぱりな、と思いましたか?励まさなくちゃ慰めなくちゃ、と焦りましたか?失礼な発言をしてきたかもしれない自分に冷や汗かきましたか?


どんな反応を見せたとしても、それはごく自然なこと。でも見せてはいけない反応、かけてはいけない言葉もあります。例えば「うそー。あなたが障害なら私も障害者だわー」とか「見えない見えない、気にしすぎだよ」とか「〇〇さんは〇〇法で良くなったんだって!あなたも試してみれば?」とか「だと思ったー。だってあの時あなたおかしかったじゃん?」……そういう第一反応は相手を本当にガッカリさせます。


じゃあどうしたらいいのか。かけてほしい言葉、見せてほしい反応は人によって違うから正解はないと思いますが。でも私だったら。私の場合は目ではわからない障害だから「そうだったの。話してくれてありがとう。今までつらかったでしょうね」とか「そうだったんだね。今まで知らなくてごめんね」とかそんな言葉をかけてもらえたらすごく安心します。「私、普段からいつもこんなにつらいんだよ!」という苦労話であとを続けるよりも「でも今障害がわかってホッとしてるの」「今合う薬を探しているところだけどなかなかいい病院でね」とこちらも柔らかな返しができるようになります。


人間と人間の言葉のキャッチボールはチカラ加減がとても難しい。優しく投げたつもりでも相手には遠すぎたり、元気よく返してみたら相手には痛すぎたり。人は皆自分以外の人間になったことがないから、相手を100%満足させられるようなうまい言葉なんてそう思いつかないし、自信があったはずの返しで相手にダメージを食らわせちゃうことだってある。もっともっと他人の気持ちを気遣える機能が口にあったらいいのに。もっともっと相手の本心に気づいてあげられる、そんな機能が耳にあったらいいのに。


障害があることを誰にいつどこまで話すか、そのタイミングは見えない障害をもつ人たちの永遠の課題。時にはすべてを晒して楽になりたい!と思うこともあるけど、全部話したからって楽になれる保証はどこにもない。さらに冷たく厳しい現実が待っているかもしれないのだ。人間の中には自分の知っている人をすべて脳内でランク付けして、どう接するか決めてる人もいるらしい。〇〇さんは自分より少し上、〇〇さんは対等より少し下、〇〇さんは自分よりはるか下、みたいに頭の中で知り合いすべてのカーストを決めている人。そういう人にうっかり障害を打ち明けるとたいていカーストをいきなり思いきり下げられる。だから私はそういうタイプの人には話さないようにしている。


障害があるって聞く側に回ってみると確かにショッキングな体験だ。今まで相手の障害を知らずに接してきた自分の不甲斐なさにもショックを受けるし、相手が自分の知らぬ間に重ねてきた苦労の歴史にもショックを受けるし、気の利いたことを何も言ってあげられない自分の無知さ加減にもショックを受ける。だからね、自分が打ち明ける時も相手のそのショックを思いやってあげて受け止めやすいように話すのもコツだ。ユニークに笑いを取るような話し方はできないだろうけど、少なくとも深刻になりすぎず少々明るめのトーンの声で話せたらいいなと思う。障害を打ち明けるって話す側にも聞かされる側にもなかなか気力のいることなのだ。


私は障害について話す前に障害者であることがバレてしまうことがよくある。最近一番多いのは、一緒に美術館や動物園に行って私が障害者手帳の提示で入場する時。「え、なんであなたはタダなの?」から始まって「実はね、障害者手帳があるから無料なの」で終わることが多く、こちらも相手も気持ちは今から行く施設に向いてるから話が簡単に済んでしまう。「えー、同伴者も1人タダになるの?ありがとう!あ、じゃあランチはおごるね!」みたいな展開が多くて、これは障害を打ち明けるのにいいシチュエーションだなと個人的に思っている。(笑)


障害があることは私にとって恥でもないし自慢でもない。ただ私の一部であり、それ以上のなんでもない。だからもっと人と自然に話題に出したりそれで笑えたりできたらいいのになぁと思う。


かわいそう、よりも
大変な中でがんばってるんだね!
そう笑顔で認めてもらえたら普通にうれしい。



AZU


2017年10月25日 (水)

たいへんよく働きました

今日はたいへんよく働きました!


スタンプいっぱい、自分にあげます。
Tポイントも10倍デーにしときます。
胸にたくさんリボンつけてあげます。
お好きなドリンク一杯無料になります。
あ、好きなトッピングも自由に足せます。
……


私のご褒美はちまちましてるなぁ。
っていうか、つくづく主婦だなぁ。
wwwwww


たまにはドバイで豪遊とか、
モルディブの島を独り占めとか、
パリのディズニー貸切とか、
デカイこと言ってみろよ。笑笑



AZU

2017年10月24日 (火)

姉が姉だと認識した瞬間

私には姉がたくさんいる。
でも両親が同じ姉はひとりだけ。


姉は今、うちの毒母の世話を一手に引き受けてくれている。私が精神疾患になったのは母に育てられたからだということをよく理解してくれていて、「自分は母に育てられていないので実害は受けていない、生活圏を分けて自分の生活に影響が出ない範囲で母と付き合うから自分の立ち位置は安全だ、だからAZUは出来る限りお母さんから離れていなさい」と言ってくれる。


両親は姉が5歳、私が3歳の時に離婚した。母の経済的な傍若無人ぶりと奇人のような言動に愛想を尽かした父は(子供もいることだし、この人が病気なら自分は一生面倒を見よう、しかし正常ならまず自分が自殺しないために速攻この人から離れるしかない)と母を精神鑑定に連れていったら正常との結果が出て、父は仕方なく自分を守るために離婚を決意した。私は母には精神障害だけでなく知的障害もあるような気がする。周囲の皆もそう思っている。だけど医師や行政がそう判断しない場合、家族の意見には何の効力もない。


母にもいいところはある。笑い上戸で少女っぽいところや自然が好きで可愛いものも大好きなところとか。でもそれは裏を返せば今でも精神的に子供のままで、大人として、一社会人として世の中で生きていくには全く適応できていない、そんな印象も受ける。とにかく反応や言動が幼児みたいなのだ。それは母の純粋さなのかとよいほうに捉えるようにしていたけれど、子供に育てられた子供はたまらない。私は小学生の頃から母のお母さん役や母の夫役を演じ続けて母をかばっていた気がする。娘としてはお母さんに「自分は経済力も特別な才能も夫の協力もなかったけれど子育てには誰よりも成功した」という自尊心を持ってほしくて、母の自慢の娘であるよう、とにかく努力していた。まぁ、母は私を自慢になどこれっぽちも思っていなかったと後で思い知らされることになるんだけど。


今は母と5歳で別れた私の姉が母の近くに住んで母の世話を焼き、母のお金を管理し母の健康面を気遣ってくれている。そんな姉に「迷惑かけてごめんね、お母さんのこと任せきりでごめんね」と謝ってばかりいる私は、いまだに母の世話は本来母に育てられた私の仕事なのだと思い込んでいるのだろう。姉は「そこはAZUが謝るところじゃないでしょ」といつも笑う。姉は精神的にとても強くて自分をしっかり持っている人だ。母にもきちんと叱れるし、母に冷たく厳しく接することもできる。私はダメなのだ。母に優しく甘く丁寧に接してしまうから母にすぐ利用されてしまう。ただ、利用価値がなくなったと判断された瞬間、母のほうから私を捨ててくる。


姉は言う。「離婚なんてさ、お父さんは卑怯なもんだよね。夫婦は所詮他人だから紙切れ1つで一生縁を切れる。あたしたちは娘で、お母さんと血が繋がっているからどんな方法を使ってもお母さんと縁が切れないんだもん…お父さんが一番楽してるよな。離婚なんて簡単な手続きに思えるけど、あたしたちが成人して中年になろうとしているのにAZUは親が原因の病気でいまだに苦しんでいて、あたしもお母さんの緩みっぱなしの財布の紐を縛るのにめちゃめちゃ苦労してるなんて、両親の離婚の悪影響って子供にとっては終わることがないね」


姉にはすごく感謝している。一緒に育っていない姉が本当に私の姉なのだと認識できるようになったのは、姉のおかげで私が母と精神的に距離を置けるようになってからだ。姉が母の電話を取り、母の家を訪ね、母の話を聞き、母のわがままを叱ってくれるようになってから、私はうつ状態に陥ることが劇的に減った。母と違う県に移り住み、母と連絡を断つようにしてから、私は精神的にかなり平衡を取り戻した。姉がいてよかった。姉が私の姉として存在してくれていて、申し訳ないくらいだけど本当によかった。姉がいなかったら私は背負うものが大きすぎてとっくに潰されていただろう。姉が今自ら「大丈夫、あたしがやるよ」と引き受けてくれたものの重たさが私にはよくわかるから、感謝しかない。


姉に「AZUはお母さんに育てられてお母さんという大人しか見てこなかったから考え方やお金の使い方や振る舞い方を母から学んでしまっている部分が大きいよね。あたしはそれを一番心配してる」と言われた。私は「確かに私はお母さんを見て育ったからお母さんと同じような言動を知らずにやってしまうことがよくある。でもね、(あ、今お母さんと同じ行動を取ってしまった)と気づいた瞬間激しい嫌悪感を感じるんだ。その気持ちに襲われた時はすぐにやってしまったその言動をやめるようにしているよ」と答えた。「そう、その時に嫌悪感を感じると聞いて安心した。AZUはお母さんのようになるまいとすごく努力して闘っているんだね。自分がお母さんと似ていると気づいた時に感じるその嫌悪感こそが、AZUをお母さんの影響下から引き離していく力になるのかもしれないね」と姉に言われた。


同じ両親から生まれた2人の女の子でも、父に育てられた姉と母に育てられた私とでは精神的な状態がまるで正反対だ。強いメンタルを持ち、自分に自信があり明るくて賢くて堅実な姉。精神疾患をいくつも抱え、いまだに母から受けた仕打ちのフラッシュバックに怯える私。もちろん姉は姉で私にはなかった苦労をたくさんしてきたけれど、少なくとも姉は精神的に健康だ。私が中国で「肉親同伴での強制帰国」として精神科病棟から追い出された時もはるばる異国まで迎えに来て日本に連れ帰ってくれたのは姉だった。


姉がいてよかった。
今は素直にそう思う。
これからもいてほしい。
本当にそう思う。


カッコよくて、センス良くて、美人なお姉ちゃん。私と母を引き離すために行動してくれてありがとう。今はごめんねよりも、「ありがとう」。



AZU

2017年10月23日 (月)

お休みだが一片の罪悪感なし

台風一過。AZUは高気圧が大好きです。
浮かれて歌を歌っています。
「Take me out to the ball game~♪Take me out with the crowd~♬」
子供の頃セサミストリートで覚えた「私を野球に連れてって」。今日は風が強すぎて試合にならないけどね。私は野球のこと全然わからないんですが、実は松井秀喜選手がメジャーリーグに行ったことにいたく感銘を受けて(私も海外を目指そう)と思い立ち、上海へ行ってしまったというミーハー女子。当時使っていたメールアドレスにはもちろん松井選手の背番号55を入れていました。


最近、休むことに罪悪感を感じなくなったんですよ。
それはね、24時間のうち20時間は私の布団で眠りこけているヤツが二匹もいるからなのかもしれません。犬のナオと猫のナナを見てると、生き物の本分とは寝ることなんじゃなかろうかと思わずにいられない。犬のナオちゃんは前の飼い主の義父が死ぬまで、非常に警戒心の強い凶暴なワンちゃんでした。鎖につながれたままたくさん暴力的な扱いを受けてきたから、寝ている姿を決して人間に見せないような犬でした。でもAZUとSHUが引き取ってから数ヶ月後のある日、犬に聴かせるヒーリング音楽をかけながら優しく撫でていたら初めて私の腕の中でウトウトしてくれたんです。寝る姿を初めて人に見せてくれた……ナオちゃんがついに人間を信じることができた記念すべき日でした。


今では私の布団の半分を使って大の字で寝ています。そのすぐ横には同じく手のつけられない凶暴猫だったナナちゃんも。猫のナナちゃんは義父の家にいた頃、よく階段の踊り場に鎮座していたのですが、ナナが踊り場にいると人間が階段の昇り降りを諦めるしかないほど凶暴でした。踊り場にいるナナをまたいで階下に行こうものなら血を見る覚悟、誰にも一切身体を触らせず頑なに人間に心を許さない恐ろしい猫ちゃんで、私は玄関先に犬のナオが、階段の踊り場に猫のナナがいるから旦那の実家に行くのが恐怖でした。


でもそのナナちゃんもAZUとSHUと暮らし始めて2ヶ月後、ついに自分からスリスリしてくるようになり、今ではトイレに行くにも台所に行くにも洗濯をするにもミャーミャー鳴きながらぴったり足元についてくる甘えんぼ猫さんに豹変しました。「抱っこしておねだり」もものすごく、以前とは別人28号。最初は絶対に自分だけしかいない部屋で一人で寝ていたのが、今はAZUの布団の1/4を使って一緒に寝ています。つまり、布団の1/2を犬に取られ、布団の1/4を猫に取られている私の寝床は常に非常に狭く、いつも下半身が布団から出ちゃってるのです。で、我が家は寝室の他にもう1つ洋室があるのですが、猫のナナちゃんがそこで一人で寝ていた時の名残で「猫の部屋」と化してまして、単に猫のトイレと猫のエサ台が置いてあるだけの殺風景な洋室になり果てています。


「せっかく空いている部屋があるんだから、私の服をそのウォークインクローゼットにしまって私が昼間過ごす趣味の部屋にしていい?」と旦那のSHUに聞いてみたのですが、「あれはナナの部屋だよ」と一言で返されてしまい、結果私の居場所はいまだに寝室のシングル布団の1/4のみなんですよ。猫は六畳間一人で使ってるのに!


でもね、この子たちがいるおかげで私は休み方を覚えたんです。あ、寝てりゃいいのか、と。今も私がブログ書いてる横で二匹は爆睡中でして、365日日曜日である彼らはとにかく寝る、寝る、寝る、たまに食べて遊ぶ、あとは寝る、寝る、寝る。ナオちゃんとナナちゃんと一緒に暮らしていると、休むことが人間にとって最適な昼間の過ごし方のような気がしてきて、そのサイクルに自分もハマってみたらなんと入院しなくても心身が休めるようになったんです。動物が家にいなかった時、私はこれ以上休まなかったら死ぬという限界まで働き、後はバタン!とスイッチが切れて精神科に入院させてもらっていました。でも今は自分の家で十分に休息が取れます。しかも穏やかに、爽やかに過ごせます。本当に贅沢な休み時間を過ごさせてもらって感謝、感謝です。


休み方を教えてくれたナオとナナ。今日は写真を載せますね。寝姿ですけどね。






ついでに私のリラックマ愛が伝われば万々歳です。



AZU

2017年10月22日 (日)

仕事だ胃炎だ腰痛だ

総選挙投票日。私は仕事だったんですけど、


再び急性胃炎を起こし、痛み止めを飲んでもなかなか効かず、結局早退しました。


なんでこんなに具合悪いかって、安倍さんのせいかもしれません。2006年から安倍政権発足の度になぜか同じタイミングで入院してきた私。今日の総選挙で再び安倍さんが勝ちましたからね、AZUの調子の悪さのスイッチがまた入っちゃいましたね。


自分は第一次安倍内閣発足時(2006.9)に精神科閉鎖病棟に入院。第二次安倍内閣発足時に(2012.12)に再入院。そして第二次安倍内閣(改造)発足(2014.9)直後に再々入院。安倍内閣が立ち上がるたびに精神を持ち崩すジンクスがあります。


で、今回もこのタイミングで私は入院の代わりに自宅療養に入ります。


面識もゆかりもない安倍さんとは、今年も変なことで腐れ縁です。



AZU

2017年10月21日 (土)

体の病気じゃない時の休み方

熱が出ているわけでもお腹を壊しているわけでも骨折しているわけでもないが、仕事を休んだ。なんとなく予感がするんだ。多分このまま出勤していても今はまだ大丈夫、でも3ヶ月後くらいには「就労不可能」という診断書をバアン!と置き残して退職しちゃうんだろう。それがわかっているなら、ためらわずに先に休もう。退職するのは簡単、でもまた就職するのは至難の技。今いるところに席を残しておくほうが絶対にラク。


そういう、体が悪いわけじゃない日の休み方。
今日実践したこと。

実践その1・早起きしたら山形風芋煮を作る。
実践その2・TSUTAYAで映画を借りる。
実践その3・60円のバスソルトを買いに行く。
実践その4・犬をゴシゴシ洗う。

ココロがリラックスできていれば、休みは成功。
ココロがまだ疲れてる?その時はもうちょい休もう。


おやすみなさい、良い明日を。

AZU

2017年10月20日 (金)

ポジティブすぎる友人の罠

今日はね、「体罰は子供の心を殺してしまう、実際に自衛本能すら無くしてしまう」ということを書こうと思っていたのに、犬の散歩してたら急に違う話題が浮かんできて、そっちから書きます。いやしかし、秋の長雨は犬飼いさんには困りモノ。うちのワンコは外じゃないと用が足せないので、カッパ着せて傘持ってウンチ袋持って水筒も持って大仕事になってしまう。早くスカーッと晴れて河原を走らせたいです、私は走んないけど。


昨日のブログの最後に「ポジティブ過ぎる人は疲れる」と書いたんですが、最近私の周りに多いんです、こういう意識高めの女子が。外国語を勉強できるアプリだとか、カットが上手いカリスマ美容師だとか、評判のいい美術館の企画展とか、身体にいい食べ物とか、とにかく異常な熱心さで勧めてくるんです。良いものを紹介してくれる分には異議なしなんですけど、「やらないあなたは損をしてるわ」的な雰囲気を出してくるのがどうにも苦手で。私は何かを勧められると、その人をガッカリさせたくない一心でついつい申し込んじゃったり購入しちゃったりするタイプなんです。で、使わずにしまいこんでしまったり食べずに消費期限過ぎてしまったり、いやもう本当にそっちのほうが損してる。飽きっぽい私にとっては「手を出したが最後、確実に損をする」ようにできてるわけで、だから私には何も勧めないでほしいんです。


でも意識が高く自身を高めることに目覚めた女子というのは末恐ろしく、プロの営業マンに匹敵するほど人を無理やり動かす力があって、私みたいに押されると簡単に動いちゃう人はいつも寄り切り、押し出し、結果黒星。ポジティブなのはね、いいことだと思うんですよ。意識高いのもカッコいいと思うんですよ。でも人には勧めなくていいよ、マジで。私は最近強烈な勧誘を受けて英語を勉強するアプリやら、毎日15分の筋トレやら始めさせられたんですが、もうやらされてる感満載なのでついに意義を見失ってブチ切れてしまい、結局全部辞めちゃいました。ポジティブな友人ってたいていいい人が多いので、フラァっと付いていってしまいがちなのですが、いやー今は全部ゴメンだわ。ココロが休養を必要としている時はポジティブ過ぎる友人とも距離を置くこと。「損してる」って言われようとあんまり真に受けないこと。私は犬のウンチを残さず拾ってるだけで十分意識高いんです!


で、いきなり話題変わって体罰のことなんですけど。


私の母はひどく体罰をする人でした。子供を素手で叩けば自分も痛い。その痛みを共有してこそ親じゃないかと思うんですけど、うちの親の卑怯なところは道具を使うんですね。それというのも、一度母が私を素手で叩いたら母の手が内出血してしまい、それを見てビビった母が「お母さんが痛いしお母さんが怪我をしちゃうから」という理由で道具を使うようになったわけです。人間てね、煮炊きするにも建築するにも素手じゃなくて道具を使う生き物ですけど、道具を使って他人を攻撃し始めたらもう人間じゃないと思うんですよ。フェンシングとか、剣道とか、双方が同じ道具を持っていたら「試合」になるけど、片方だけが道具を持つなんてそんなアンフェアな試合はありません。


先日、あるエンターテインメントショーを観に行きました。伝統的な和の美しさや力強さを表現したノンバーバルなパフォーマンスで、出演している方たちもエネルギッシュでとにかくカッコいい演目でした。ただその途中で、ある俳優さんが一人で出てきて、長くてよくしなる棒をバトンのように回しながら音楽に合わせて床にバシン!と叩きつける動作が3回くらいあったんですね。私はその瞬間背中とお尻に痛みが走り、呼吸が一瞬途切れました。親に叩かれた時のフラッシュバックが襲ってきたんです。うちの母はよくしなる道具で私を立てなくなるまで打ちのめすのを、私が生理中の時でさえ体罰としてやっていまして、その「いつ終わるかわからない激しい痛みと恐怖」が記憶の中でよみがえってしまったんです。


体罰は必要か否か。私には正しい答えなどわからない。でも子供に手を上げること、しかも道具を使って一方的に痛めつけることは何も良いものを生み出さないと思います。うちの母も仮に「娘を聞き分けの良いいい子に育てたい」「善悪のわかる分別のある子になってほしい」という動機があって私を叩いていたのだったとしても、結果として私に残したのは「母の愛」でも「きちんとした躾」でもなく、多種多様な精神疾患のみでした。私が母の手から逃げようとして人格が複数に分裂し「解離性同一性障害」と診断されて入院したのも、経済的にも精神的にも親から圧迫されて単なる「うつ症状」だったものがさらに深刻な「統合失調症」として診断されたのも、やっぱり母の仕打ちにメンタルをメタメタにされていたからだと思うんです。ちょっとダジャレになりましたけど。


いい子にさせたいのなら体罰の前に出来ることっていくつもあると思うんです。子供の言い分を傾聴して気持ちを汲んであげてから穏やかに諭すとか、お小遣いやご褒美を取り上げたり家事やおつかいなどのペナルティーを課すとか。体罰じゃないとわからない子供は体罰でもわからないと思います。体罰は親が「親業をやってる」と思いたいだけの暴力的な自己主張です。子供の将来を思ってのことなら、なぜ子供が健全に育つのを自ら妨げ、将来確実に精神疾患を負うように仕向けるのでしょうか。


私はそのエンタメショーの床を打ちつけるパフォーマンスを見た瞬間、そのパフォーマーさんに言いようのない憎しみの気持ちが湧いてきました。彼はただの俳優さんなんです、彼の動作はショーとしての芸だし、私は彼と何の面識もないんです。それなのに彼が憎らしくて憤りと恐怖に固まってしまった自分の反応に、私は私のココロにいる怯えた少女の存在を感じました。うちの母親は私を自力で立てなくなるまで殴って、私がなんとかヨロヨロと立ち上がって深々と一礼し、「ありがとうございました!」と大きな声で言えるまで許してくれませんでした。私はその理不尽な痛みに対する怒りが、ステージ上の俳優さんにまで向いてしまったことについて後日深く考えてみました。私はまだまだ癒しと慰めと安心感を十分に与えられていないんだ。今でも恐怖と悲しみに打ち震えているんだ、と思いました。


体罰は子供の心を殺します。実際に脳が萎縮してしまうそうです。精神疾患も人格分裂も引き起こします。大げさな言い方ではありません。


お願い、子供を叩かないで。
子育てがどんなに大変で孤独でも、弱い立場の子供に、人生経験がまだ浅い子供に、手を上げないで。


そうお願いすることしか、私にはできません。子供を本当に愛している親なら、子供を叩いてしまった時、きっと自分の心も大きく激しく痛みます。そんな時は子供に謝って、子供を赦して、子供を抱きしめて泣いてあげて。


私の親はそうしてくれなかったけど、
せめて私は自分で自分を抱きしめて赦して癒してあげようと思います。

でも言いたい。


取り返しのつかないことも世の中にはあるんだよ、って。



AZU


2017年10月19日 (木)

ブログにただいま

天高くAZU肥ゆる秋。
秋といえば秋刀魚、秋といえば紅葉、でも今年はいきなり冬。
もともと秋に弱いAZUですが、すっかり体調を崩し……いや体調じゃなくココロを崩しまして、それで久しぶりにブログを開けた次第です。もはや心が弱っている時に戻ってくる場所と化している当ブログ。読んでくださる方はもうほとんどいないんですが、なんというかにわかに始めたTwitterやInstagramと違って12年も書いてきた個人ブログなので、自然消滅だけは避けたい気分で続けております。


今回、ココロが弱りすぎたせいで仕事を約3週間ほど休むことになり、その間ココロのリハビリというか軽い筋トレ気分でブログを書こうと思っています。最近140文字で呟いてばかりで、もともと長文投稿が好きだったのにすっかり短文多投稿に浮気してまして、いやいやAZUらしくないなと。たまにはブログもね、風当ててあげないとね。


そういえばこのブログは「AZUは西新宿で野宿中。」というタイトルだったんですね。いや、今更ながら改めて知りました。ずっと「AZUのサンへーブログ。」でやってきたのに、ホームタウンが上海から職場のある東京に変わって今いきなり西新宿なんですね。実は西新宿で働いていたのはもう1年半ほど前までで、現在は丸の内なんです。上海に住んだことで人の多いところに慣れてしまい、今は東京駅も平気です。私は大勢の人が何かの目的で大集合しているのは苦手なんですけど、目的も行き先も違う人たちが無関心に行き交ってるところは割と好きなのです。駅ってまさにそういうところですよね。


ココロの静養。すごくすごく必要としてたのに、いざ「休んでいいよ」って言われるとどうにもこうにも罪悪感やら焦燥感やらでいっぱいになってしまい、正しい休み方がわからない。本当に不器用だなぁと思います。でもとにかく仕事を休めることになったのでしばらく長文投稿頑張ります。ただし、しんどい日は無断で休みます。


ネガティブすぎる人はゴメンだけど、
ポジティブなことしか言わない人もまた非常に疲れるんだよね。
AZUはテキトーでいこうと思います。


みなさん、ただいま。


AZU

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