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2017年12月

2017年12月29日 (金)

今年最後の早朝出勤

2017年は、
AZUにとっては特筆すべき平和な一年でした。


仕事も一度も変わらず一年間やりきったし、
二週間の休暇はもらったけど急な欠勤もなく、
入院の必要も感じなければ病院に駆け込むこともなく、
職場の皆とは本当にうまくいってるし、
仕事もゆっくりとだけど上達しているし、


家庭の中は平和そのもので、
SHUとは今までの何倍も仲良く過ごせたし、
犬も猫も可愛くて元気で大好きだし、
大きなテレビも加湿器やホットカーペットも買えたし、
夏は涼しく冬は暖かく、春は優しく秋は楽しく、


年末までに8.5キロのダイエットに成功したし、
痩せたら身体がとても楽になったし、
頭が暴走することも思考が解離することもなく、
ちゃんと自分が自分のまま地に足をつけていられたし、
それはどれも今までの私が本当に得難かったもの。


だから、平和な一年に「ありがとう」。
今世界が終わっても笑顔で終われるし、
でももう少し続いてくれたらいいなと思える、
そんな「生きていることが楽だな」と思えた一年に、
やっぱり最後は「ありがとう」。


さ、今日は今年最後の早朝出勤。
朝焼けの空に浮かぶ雲が水彩画みたいで、
電車の暖房がほどよく暖かくて、
そんなことにさえ「ありがとう」と言いたくなるよ。
行ってきます。


AZU




2017年12月23日 (土)

小さい頃は神様がいて

小学校六年生の時のクラスのメンバーで当時の担任の先生を囲んで新年会をやることになった。みんなに会いたいのは山々だけど新年早々新幹線で実家方面へ行くのはやはり気が進まず、同窓会の招待状〜欠席に丸をつけた〜〜♬と最後は歌になっているけど。最近の招待状は往復はがきじゃなくてLINEのグループトークなんだよ。だから丸をつけたわけじゃない。LINEスタンプ押しただけ。


東京で同窓会やりたいなぁ。
地元を出て東京で働いてる人そこそこいるみたいだし。でもおもしろいのが、当時学級委員や児童会長だったようなメンが結局この歳になっても同窓会の幹事やってるんだよね。リーダーシップをとるのが上手い子は大人になってもなんだかんだみんなの話のまとめ役。


ランドセルも持たずにパジャマにサンダルで登校し、教室に入って「あれ?カバンは?」と聞かれて初めて手ぶらで来たことに気づき、「全部忘れた…」とうなだれていたO君が今は社長になってるとかさ。下ネタばかり言ってクラスの男子をエロく煽っていたK君が今はスーツ着て東京で真面目に働いてるとか。五年生で転校してきた時断トツイケメンすぎて女子全員が色めき立ったH君が最近までマレーシアで勤務していただとか。中年になるとこの半生の積もる話もどんどん深くなってきて楽しい。特にアホだった男子の変わりようがおもしろくて。


私も小学校時代は考えたこともなかった生活を今送っている。小学校の時は将来大人になるということがそもそも理解できてなくて、ずっと子供のままでいられるような気がしていた。そんな時、六年生の時の担任の先生が「キミたちはいずれ嫌でも大人になる。でもこの歌みたいに子供の心を失わずに大人になってほしいんだ」と歌詞カードを全員に配り、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」を聞かせてくれたのを思い出す。


小さい頃は 神様がいて
毎日 愛を 届けてくれた


その時大学を卒業したばかりの若い新米教師だった当時の担任の先生は、今年度から地元の市立小学校の校長になった。年齢的にもとても早い出世で、それを記念して有志で集まろうじゃないか、とのこと。先生に会えたら話したいことがたくさんある。でもほとんど言葉にならないだろう。先生の過ごしてきた時間のほうが私の時間よりきっと何倍も濃くて、自分が断然ちっぽけに感じてしまうだろう。


やさしい気持ちで目覚めた朝は
大人になっても 奇跡は起こるよ


会いたい。
今回は会いに行かないけど。
いつかは会いに行く勇気が出るだろうか。



AZU




2017年12月11日 (月)

社会復帰はまるで登山

私はアウトドアが嫌いである。
山に登ったり海で泳いだり川でバーベキューしたり…が全部苦手なんである。理由は「不快だから」ダメなんだと思う。汗かいたりベトベトしたり雨や陽にさらされたり煙にまかれたり焦げた部分を皿に入れられたり蚊が飛んできたり…がすべて「不快だから」アウトドアを敬遠してしまう。なぜ!それを!屋内でやらないのか?といつもツッコみたくなってしまう。快適な屋内にいるのが好きだ。日本人だから一生に一度は富士登山を…とは絶対思わない。富士山はポストカードで見ればいいのだ。現物よりきれいだしね。


でも今、私はSHUの手によって釣り好き女子にさせられそうなんである。「AZUと一緒に釣りをしたいなぁ、アジアに釣り旅行に行きたいなぁ」とキラキラな目で言われるから「そうだね!行こうね!」と答えると、SHUは早速「AZUの竿はこれを買おう。リールはこれ。ルアーはこれ。使い方は…」とプロデュースを始め、私はいつのまにか最近毎晩、初心者がプロアングラーから釣りの基礎を教わる動画を見せられている。ピンチだ、ピンチなのだ!私はインドア派なのだーーー!


そんな私は、仕事のために家を出発するのも非常に億劫で、仕事がいつも人生の鬼門である。解離性障害や双極性障害で入院したことが5回ある私は社会復帰も少なくとも5回以上トライしてきた。今日はその体験を書こうと思っている。病気から回復する過程も時間と体力と気力を相当使うのに、世間はさらにそこから「社会復帰」することを要求してくる。つまり、退院した日からすぐに「で、いつ仕事を始めるの?」という無言の圧力が肩に重圧となってのしかかってくる。仕事しないと誰かの世話になるしかないし、経済的に自立しないと次のステップに進めない。それは重々わかっているのだけど…社会復帰の過程はつらいことの連続でまるで冬山登山のようだ。


私が最初に入院した時は退院後完全に寝たきりのようになってしまった。気分は落ち込むばかりで体は年寄りのように思うように動かず、寝室から台所まで歩くだけで疲れ果ててしまうような感じだった。それでも何ヶ月も寝ているわけにはいかない。いずれは仕事を始めなければ。まだ25歳くらいだったのに、早く人生を終えたくて将来に対して非常に悲観的で、やりたい職業も就きたい仕事も何一つなかった。やりたいことを探そう…何でもいい、心がうっすらとでも興味を感じるものに出会えたらそれを自分にやらせてあげよう、と思っていた。


私はまず「親のいる実家から出たい」と思い、それならどこへ?と考え始め、「日本国内で行きたいところはない」という結論に至った。そこでロシア行きの情報を調べ始めるもビザが難しいことがわかり、結局中国を目指し始めた。当時の日記には「中国でならもう少し生きていてもいいかな、と思える」と書いてある。人生経験の浅い私は社会復帰の場所として海外を選んだ。親から完全に離れて誰も知る人のいない街で自由に暮らす、そしたら病気も良くなるはずだと漠然と思っていた。そして退院から半年後、私は所持金三万円で上海に引っ越していた。上海で最初にビザをもらった会社を3ヶ月で辞め、その後は食費程度しかもらえないお店で店番をしていた。お金はいつもないに等しく、交通カードに100元チャージするとしばらく食べるものに困るほど貧困生活を送っていた。当時の上海で私より貧しい日本人はいなかったんじゃないかな、と思うほど。ペットボトルを集めて屑屋に売りに行って飲料水を買ったり、1元の味付きクレープみたいなものでお腹を満たしたり、0.5元の塩味のマントウを大事に食べたりしていた。靴は破れ、服は足りず、髪はぼさぼさで帰国費用もなかったから2年間一度も帰国せず、翻訳や店番や広告会社のバイトなどで食いつないでいた。あれは「社会復帰」ではなく「治療からも就職からも家族からも逃げ回っていた逃避行」に近かった。


当然、また鬱になり上海で入院生活になった。結果、強制帰国させられたので次の社会復帰は日本でしなければならなかった。父の家に居候したまま、半年くらいは寝たきりの生活をしていたが、さすがに見かねた父が「何でもいいから働いてくれ」と言い出し、私は手作りで「出張家庭教師、中国語教えます」という張り紙を作って近所に貼り出しに行った。当たり前だけど一件も電話は来なくて、父は「コンビニのレジくらいできるだろう」と私を近くのローソンへ面接に行かせた。でもそのローソンでは「あなたまだ若くて中国語もできて海外帰りで…こんな田舎のコンビニで働くのはもったいないですよ!」という理由で断られてしまった。仕方なく、近所のスーパーに面接に行ったら働かせてもらえることになったがいきなり週5フルでシフトを組まれてしまい、私は恐怖のあまり泣き出した。で、うつ病で最近まで入院していて社会復帰のための最初の職場なんです、となりふり構わず必死で説明してやっと週2〜3日出勤に減らしてもらった。私は頭の回転が恐ろしく鈍っていて、レジもなかなか覚えられず、品物をカゴにうまく収めることもできなかったから客から怒鳴られてばかりだった。結局、3ヶ月くらいしか続かなかった。


病み上がりの社会復帰は本当に苦しくて急な山道を大きな荷物を背負うよう命令されてひたすら前に前に歩かされているようなストレスと疲労感があって、いつもうまくいかなかった。お金が少しでも手に入るなら、少しでも世間体を保てるなら、どんな仕事でもよかった。とは言いながらも体力が底をついてるから肉体労働はできないし、頭脳もすっかり衰えているから事務労働もできず、結局ケーキ屋さんで洋菓子を売る仕事に就いて、そこは3年くらい続いた。家に持ち帰る業務もないし、短時間勤務を申し出て許してもらい、細々と働いた。この時が一番正常な「社会復帰」に近い状態だったと思う。出かける場所といえば職場と病院だけ、かなりおもしろみのない生活をしてはいたがケーキ屋さんにいる間に結婚して苗字も変わった。私生活はまあまあうまくいっていた。


その後も二回入院した。再び移住した中国での入院で、社会復帰はかなり焦らされた。外国人として働いている以上、あまり現場を離れるとビザを失ってしまうから、一日も早く職場に復帰することは死活問題だった。中国では入院している間に事実上解雇されたこともあり、就労ビザを出してやったんだから不当な価格でビザを買い取れと迫られたこともあった。中国での最後の入院の後、とうとう物価が高騰し続ける中国で社会復帰を急がされることに閉口し、不本意ながらも帰国することにした。またまた日本で社会復帰を試みることになった。その時は実家暮らしではなく夫婦でマンスリーアパート暮らしだったから、半年くらい寝たきりなんて叶うわけもなく、帰国して二週間後くらいには空港免税店で通訳をしていた。まだ精神的にも体力的にも退院してから少しも回復できていなかったので、回転の速い現場でヒールで立ちっぱなしの7時間は非常につらかった。しかもこの時はSHUが働きに出られないほど具合を悪くしていたので少しでも動けるほうの私が無理をしないわけにはいかず、毎朝毎朝空港に週5で出勤するのはもはや意地だった。足が痛すぎて歩くたびに激痛が走り、仕事の他のことは一切何もできなかった。あまりにつらく厳しい「社会復帰」だった。ちょうど中国人観光客の爆買いシーズンにドンピシャで、文字通り国産化粧品が飛ぶように売れ、売り場に並べる暇もなくダンボールから直接中国人の買い物カゴに放り込んでる状態で、残業ばかり頼まれ死ぬほど忙しかった。あれは最悪な社会復帰の一例だった。


やっぱり、病み上がりの一本目の仕事は負担が少なく多少単調でも易しい仕事を選ぶのがいい。私は失敗ばかりして、具合をかえって悪化させてきた。できないことはできないと断り、少しでも勤務の時間を減らして少ない仕事量からスタートすること、心が恐怖を感じ始めたら相談できる相手がいることはマストだと思う。「社会復帰」は本来しなければいけないことではない。でも現実には周囲からそれを迫られるし、自分の自由になるお金を持つことは病状の安定にも自尊心の保持にも少しはつながる。最初からペースを上げて飛ばすのだけは絶対ダメ、後で必ず余計ひどい絶望状態に陥る。精神を病んだら、この世界のシステムがすべて自分の敵に思えてくるのは自然なこと。そこに慌てて飛び込もうとしてはいけない。


ゆっくり、ゆっくり、
易しいことから少しずつ。


それがやっぱり一番だと思うの。



AZU

2017年12月 8日 (金)

結婚9年目〜〜☆

2017.12.8 happy 9th anniversary



じゃーーん!結婚記念日!
ひゃっほーい!ひゃっほーい!

以上。

今日はね、AZUとSHUの記念日だからね、
バァァァ〜ン!とクラッカー鳴らして、
シュポォ〜ン!とシャンパン開けちゃって、
ワイワイ騒ぎたいんだけどね、

今まで辿ってきた道のりを考えたら、
しんみりとするしかなくて、
何度も死の淵まで行きかけた私たちが、
生きてて笑ってて働いてて、
こうやって9年間も一緒に歩いてきて、
……ほんまにありがとう。


SHUくん、約束するね。
いつかキミとね、夫婦アングラーになるよ。
いつかキミとね、アジアを歩き尽くすよ。


这九年来,我拼命地跟着你走,
今天终于能跟上你的步伐了,
我们到底能走到多远?能活到多久?
无需找到答案,只要两个人在一起一切就OK了。
从那天开始一起走到今天,
我和你在一起,这应该是老天的安排。
爱就像一场拔河比赛,一开始就停不下来,
我对你的这归属感让我们紧紧贴在一起,
我有种预感我们或许可以一起走到永远,
没有期限,也没有极限,
我相信我们之间的感情永远不会灭亡。
爱你,爱到永远,我唯一的情人SHU。


(この9年というもの、必死でキミを追いかけて、今日やっと追いつけた気分なんだ。私たち、どこまで行けるんだろう?いつまで生きられるんだろう?いや、答えなんかいらない、2人が一緒にいられさえすればあとは万事OKで。あの日から今日まで一緒に生きてきて、今こうして一緒にいるのはたぶん天の定め。愛は綱引きみたいに一度始まったらもう止めたりできなくて、私がキミに感じてる帰属感が私たちをガッチリと繋ぎ止めていて、なんだか永遠が見える気がするんだよね。期限も限界もそんなもんなくて、2人の間の気持ちはきっと永遠に変わらない。好きだよ、永遠に。たった1人の恋人SHUへ。)



AZU


2017年12月 1日 (金)

泣きたかったんだよ私

幸せな親子。幸せな家庭。
妻を愛する父に、子を慈しむ母。
子供は外で嫌なことがあっても、走ってうちに駆け込んで親の懐に飛び込む。そこは世界で一番安全な場所。決して子供の気持ちを裏切らない、大好きなパパとママがいる場所。


……ってか、そんな動画を見せられて、
心がむしゃくしゃして、
頭がぐしゃぐしゃになって、
無謀運転したくなる気持ち、わかる?
私の腹の中で響くんだよ、あの意地悪い声が。
「あなたもいい子にしてたらこうしてもらえていたのにね」って!


私、いい子にしてたよ!
私、ずっといい子だったよ!
何がいけなかったの?
どうすればあんなふうになれたの?
誰も教えてくれないじゃない、
知ってる。
最初から、
最初から私の分はなかったんだよ!


布団に潜り込む。
窓の外から聞こえる子供の声がうるさい。
静かに怒りを封じ込めたくても、
もう怒りに点火してしまった。
だからなんで!
なんで誰も謝りに来ない!?
なんで誰も本気で怒ってくれない!?
なんで誰も私の目を見ない!?
なんでみんな触らぬ神に祟りなしとばかりに遠巻きに逃げていく!?


怒りに着火。
次々に上がる黒煙と爆発音。
そうだ、みんな死んじゃえ。
巻き込まれて消えちゃえ。
手も足も顔も吹っ飛んじゃえ!


私はいい子にしてたの!
みんなが見てないとこでもいい子だったの!
いい子にしてたのに、
ご褒美ではなくお仕置きしかなかったの!


寒いよ。
寒いよ。
うちに入りたいよ。
だけど内側から鍵がかかってるんだよ。
叩いても叫んでも開かないんだよ。


私、そうだよ。
泣きたかったんだよ。
泣かせてもくれなかった。
おとぎ話みたいに、
私の涙のしずくで何かが始まればいいのに。
泣いたってただ目が腫れるだけで、
世界は何も変わっちゃいないんだ。


怒りが出火。
もう収まらないよ。
燃やし尽くすまで、
全部焦げて無くなるまで、
怒りは鎮火しないよ。



AZU

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