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2017年12月11日 (月)

社会復帰はまるで登山

私はアウトドアが嫌いである。
山に登ったり海で泳いだり川でバーベキューしたり…が全部苦手なんである。理由は「不快だから」ダメなんだと思う。汗かいたりベトベトしたり雨や陽にさらされたり煙にまかれたり焦げた部分を皿に入れられたり蚊が飛んできたり…がすべて「不快だから」アウトドアを敬遠してしまう。なぜ!それを!屋内でやらないのか?といつもツッコみたくなってしまう。快適な屋内にいるのが好きだ。日本人だから一生に一度は富士登山を…とは絶対思わない。富士山はポストカードで見ればいいのだ。現物よりきれいだしね。


でも今、私はSHUの手によって釣り好き女子にさせられそうなんである。「AZUと一緒に釣りをしたいなぁ、アジアに釣り旅行に行きたいなぁ」とキラキラな目で言われるから「そうだね!行こうね!」と答えると、SHUは早速「AZUの竿はこれを買おう。リールはこれ。ルアーはこれ。使い方は…」とプロデュースを始め、私はいつのまにか最近毎晩、初心者がプロアングラーから釣りの基礎を教わる動画を見せられている。ピンチだ、ピンチなのだ!私はインドア派なのだーーー!


そんな私は、仕事のために家を出発するのも非常に億劫で、仕事がいつも人生の鬼門である。解離性障害や双極性障害で入院したことが5回ある私は社会復帰も少なくとも5回以上トライしてきた。今日はその体験を書こうと思っている。病気から回復する過程も時間と体力と気力を相当使うのに、世間はさらにそこから「社会復帰」することを要求してくる。つまり、退院した日からすぐに「で、いつ仕事を始めるの?」という無言の圧力が肩に重圧となってのしかかってくる。仕事しないと誰かの世話になるしかないし、経済的に自立しないと次のステップに進めない。それは重々わかっているのだけど…社会復帰の過程はつらいことの連続でまるで冬山登山のようだ。


私が最初に入院した時は退院後完全に寝たきりのようになってしまった。気分は落ち込むばかりで体は年寄りのように思うように動かず、寝室から台所まで歩くだけで疲れ果ててしまうような感じだった。それでも何ヶ月も寝ているわけにはいかない。いずれは仕事を始めなければ。まだ25歳くらいだったのに、早く人生を終えたくて将来に対して非常に悲観的で、やりたい職業も就きたい仕事も何一つなかった。やりたいことを探そう…何でもいい、心がうっすらとでも興味を感じるものに出会えたらそれを自分にやらせてあげよう、と思っていた。


私はまず「親のいる実家から出たい」と思い、それならどこへ?と考え始め、「日本国内で行きたいところはない」という結論に至った。そこでロシア行きの情報を調べ始めるもビザが難しいことがわかり、結局中国を目指し始めた。当時の日記には「中国でならもう少し生きていてもいいかな、と思える」と書いてある。人生経験の浅い私は社会復帰の場所として海外を選んだ。親から完全に離れて誰も知る人のいない街で自由に暮らす、そしたら病気も良くなるはずだと漠然と思っていた。そして退院から半年後、私は所持金三万円で上海に引っ越していた。上海で最初にビザをもらった会社を3ヶ月で辞め、その後は食費程度しかもらえないお店で店番をしていた。お金はいつもないに等しく、交通カードに100元チャージするとしばらく食べるものに困るほど貧困生活を送っていた。当時の上海で私より貧しい日本人はいなかったんじゃないかな、と思うほど。ペットボトルを集めて屑屋に売りに行って飲料水を買ったり、1元の味付きクレープみたいなものでお腹を満たしたり、0.5元の塩味のマントウを大事に食べたりしていた。靴は破れ、服は足りず、髪はぼさぼさで帰国費用もなかったから2年間一度も帰国せず、翻訳や店番や広告会社のバイトなどで食いつないでいた。あれは「社会復帰」ではなく「治療からも就職からも家族からも逃げ回っていた逃避行」に近かった。


当然、また鬱になり上海で入院生活になった。結果、強制帰国させられたので次の社会復帰は日本でしなければならなかった。父の家に居候したまま、半年くらいは寝たきりの生活をしていたが、さすがに見かねた父が「何でもいいから働いてくれ」と言い出し、私は手作りで「出張家庭教師、中国語教えます」という張り紙を作って近所に貼り出しに行った。当たり前だけど一件も電話は来なくて、父は「コンビニのレジくらいできるだろう」と私を近くのローソンへ面接に行かせた。でもそのローソンでは「あなたまだ若くて中国語もできて海外帰りで…こんな田舎のコンビニで働くのはもったいないですよ!」という理由で断られてしまった。仕方なく、近所のスーパーに面接に行ったら働かせてもらえることになったがいきなり週5フルでシフトを組まれてしまい、私は恐怖のあまり泣き出した。で、うつ病で最近まで入院していて社会復帰のための最初の職場なんです、となりふり構わず必死で説明してやっと週2〜3日出勤に減らしてもらった。私は頭の回転が恐ろしく鈍っていて、レジもなかなか覚えられず、品物をカゴにうまく収めることもできなかったから客から怒鳴られてばかりだった。結局、3ヶ月くらいしか続かなかった。


病み上がりの社会復帰は本当に苦しくて急な山道を大きな荷物を背負うよう命令されてひたすら前に前に歩かされているようなストレスと疲労感があって、いつもうまくいかなかった。お金が少しでも手に入るなら、少しでも世間体を保てるなら、どんな仕事でもよかった。とは言いながらも体力が底をついてるから肉体労働はできないし、頭脳もすっかり衰えているから事務労働もできず、結局ケーキ屋さんで洋菓子を売る仕事に就いて、そこは3年くらい続いた。家に持ち帰る業務もないし、短時間勤務を申し出て許してもらい、細々と働いた。この時が一番正常な「社会復帰」に近い状態だったと思う。出かける場所といえば職場と病院だけ、かなりおもしろみのない生活をしてはいたがケーキ屋さんにいる間に結婚して苗字も変わった。私生活はまあまあうまくいっていた。


その後も二回入院した。再び移住した中国での入院で、社会復帰はかなり焦らされた。外国人として働いている以上、あまり現場を離れるとビザを失ってしまうから、一日も早く職場に復帰することは死活問題だった。中国では入院している間に事実上解雇されたこともあり、就労ビザを出してやったんだから不当な価格でビザを買い取れと迫られたこともあった。中国での最後の入院の後、とうとう物価が高騰し続ける中国で社会復帰を急がされることに閉口し、不本意ながらも帰国することにした。またまた日本で社会復帰を試みることになった。その時は実家暮らしではなく夫婦でマンスリーアパート暮らしだったから、半年くらい寝たきりなんて叶うわけもなく、帰国して二週間後くらいには空港免税店で通訳をしていた。まだ精神的にも体力的にも退院してから少しも回復できていなかったので、回転の速い現場でヒールで立ちっぱなしの7時間は非常につらかった。しかもこの時はSHUが働きに出られないほど具合を悪くしていたので少しでも動けるほうの私が無理をしないわけにはいかず、毎朝毎朝空港に週5で出勤するのはもはや意地だった。足が痛すぎて歩くたびに激痛が走り、仕事の他のことは一切何もできなかった。あまりにつらく厳しい「社会復帰」だった。ちょうど中国人観光客の爆買いシーズンにドンピシャで、文字通り国産化粧品が飛ぶように売れ、売り場に並べる暇もなくダンボールから直接中国人の買い物カゴに放り込んでる状態で、残業ばかり頼まれ死ぬほど忙しかった。あれは最悪な社会復帰の一例だった。


やっぱり、病み上がりの一本目の仕事は負担が少なく多少単調でも易しい仕事を選ぶのがいい。私は失敗ばかりして、具合をかえって悪化させてきた。できないことはできないと断り、少しでも勤務の時間を減らして少ない仕事量からスタートすること、心が恐怖を感じ始めたら相談できる相手がいることはマストだと思う。「社会復帰」は本来しなければいけないことではない。でも現実には周囲からそれを迫られるし、自分の自由になるお金を持つことは病状の安定にも自尊心の保持にも少しはつながる。最初からペースを上げて飛ばすのだけは絶対ダメ、後で必ず余計ひどい絶望状態に陥る。精神を病んだら、この世界のシステムがすべて自分の敵に思えてくるのは自然なこと。そこに慌てて飛び込もうとしてはいけない。


ゆっくり、ゆっくり、
易しいことから少しずつ。


それがやっぱり一番だと思うの。



AZU

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コメント

晚上好,我叫雨涵。我们在部落格上初次见面啊

こんばんは、初めまして。
このブログを読んで思ったことをいくつか書きます。

表ではなかなか言えないことなのですが、私は中学3年生の時に半不登校状態になり、今の学校制度に疑問を抱き、高校に進学することすら拒絶してしまいました。関係ありませんが、以前は成績学年トップを何度か取ったことがあります。
発達障害の症状で、普通の仕事が普通にできないのは目に見えていたから。学歴なんて意味ないと考えてたのもあります。

その後、母の出身地である北海道に移住しました。ですが、私の母は既に脳手術の後遺症で、身体が不自由でした。仕事や外出もほとんど出来なくなりました。
住んでから1年程経った頃、母は亡くなってしまいました。
私は母から本当に愛されてたことも分かっていたし、それは凄く辛かったことだけど、身体障碍を持った母との生活から解放されたことも薄々感じてて悲しいです。

毒親はこの世からなくならないかもしれないし、実親は病気や万が一の事故で亡くなってしまうかもしれない。その時、気軽に助けを求められるか。それが一番求められてることだと思います。
これからの社会は、さらに孤立化させて、自力で生きることを強制する一方で、助けを求める一切の行動は「逃げた」とか「甘え」で完結させようとします。でも本来なら個人の問題で帰結させるのではなくて、家庭環境や社会状況など様々な因果を考慮するべきだから。その根本的原因は今の家族制度にあると思います。

話は変わりますが、私が今やろうとしてるのは、例えば中国のネットなどに自分で描いた絵をダウンロード販売することです。まだ準備段階で何とも言えませんが。これなら在宅で出来て拘束時間もないので、提案してみました。
AZU先生は絵お上手ですし(;^ω^)

まだ親しくもないのにこんな事言ってごめんなさい。

かおりさん

ブログに遊びに来てくれてありがとう!
コメントも書いてくださってうれしいです。

お若いながらもたくさんいろんな想いを経験されてきたんですね。私のイメージではとても頭のキレが良くて優しくて繊細で才能溢れる方という印象でしたが、やっぱりそれには裏付けがあったんですね。悲しくつらい思いも理不尽で孤独な思いも全部知っている方だったんですね。中国語を勉強してくれているのもすごくうれしいです。イラストを描いて販売するのもステキなアイディア!自分の得意を十分に活かしてグローバルに活躍するのもあなたなら夢じゃないと思います!
家族というのは時に最大の味方であり、時に最大の足かせにもなります。一番の理解者であることより一番の反対者であることのほうが多くて、そこに情も混じるから本当に複雑。周りの人の後押しに頼らず、個人というレベルでまずは自分が自分を理解し自分をサポートし自分をプロデュースしていく力が、今試されているなと感じます。私も自分のあり方は自分で舵取りをしたいなと思っています。将来叶えたい夢も含めてね。

あなたのこと応援しています。

AZU

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